褒めれば人は伸びるのだろうが、、

ここ20年くらい、この様な見出しのニュースが氾濫している。

褒めてあげたら子供達の集中力が向上した。興味心が向上した。モチベーションが向上した。だから人間褒めて育てるが正解なんだ!!

こう言ったニュースを毎回楽しみに読む様に心がけているが、未だに総合的観点からの記事を見た事がない。あくまでも一片的な視野での記事のみ。効果が出た!間違いなかった!裏付けされた!と同じ話ばかり。

褒めれば嬉しく感じるの事実でしょうし、褒められたら嬉しいのは子供だけではなく人間誰もが嬉しいもんです。お世辞を言いまくって損する事は稀です。お世辞と分かっていても嬉しく思うのが人間ですし、良く思われているんだなあと思えれば頑張れる事も多々あります。そんな事は、小難しいデーターを習え並べなくても誰でも知っています。

子供が授業に集中できない、成績が伸びない

その最大の原因はその子にある。それが原理原則です。若い社会人がモチベーションを保てずに直ぐに挫折する。それは会社や上司のせいではなく、その人個人の責任が原理原則です。

それがいつの頃からか、教師が悪い、学校の対応が悪い、上司が悪い、会社が悪いと時代は流れてきている。それは「褒められたらウチの〇〇くんは出来るのに、褒めて伸ばしてくれないからできないのよ」と言う理屈。「売れていない結果は自覚している。だから、そこを怒られても意味がない。怒る前に売れる方法を教えてくれよ」そう言った思考が蔓延っている。まるで親に勉強しなさいといわれ、今やろうと思ってたのに、そう言われるとやる気がしないと文句を言う子供レベルの社会人が増えている。

できない事が本人責任ではなく、第3者の責任の様な風潮がある。

褒めることでの効率アップなどのデーターは、より多くの側面から分析をして客観的に数値を見たほうが良いと思う。

*100人中何人が「褒め対応」の効果が出たのか?

*100人中何人が「褒め対応」が無くても上手く出来るのか?

*100人中何人が「褒め対応」しても上手くできなかったのか?

上司の気遣いや会社の教育システムが無くても、キチンと向上できる人間は必ずいる。褒め対応を行わなくても集中して授業を受ける子もいます。塾に行かなくても成績の良い子は良いのです。この割合もキチンと認識すべきでしょうし、責任の所在の基本は「本人である」事を再認識した方が良いと思う。

こう言った効果のある対応に関しては大賛成だが、それが当然の風潮になるには危機感をお覚える。机がなければ勉強できない、塾へ行かないと勉強できない、優しい上司じゃないと仕事できない、教育システムが無ければ仕事ができないと言う言い訳を広げているにしか過ぎない。

出来ない責任の所在は「本人」です。

あくまでシステムなのどの手助けの部分は、付加価値であり補助です。

日本の画一的環境下で「出来ない」と言う事が生きづらく、苦しい環境に落ち込む可能性があるために「可哀想」的な感情論から、いつの間にか従来の概念全てを覆すかの様に偏った責任逃れが蔓延しているが、見直すべきポイントがズレていると思える。

できる人、出来ない人、頭の良い子悪い子、足の早い人遅い人、呑み込みの良い人悪い人、神経質な人そうじゃない人、気配りができる人できない人、そう言った人たちがそれぞれに存在できる環境に注意を払うべきであって、できない子に「出来ない」レッテルを貼るのが可哀想というのは筋がずれている。

できる、出来ないは明確に自覚させるべきと思う。

自分はどんな人間なんだ?と言う自覚を徹底して持たせるべきである。

どんなに泣いてもわめいても、出来ない事はできないのである。その悔しさ、不条理に立ち向かう「志」こそが子供が学ぶべき最大の生きる力である。「夢」は大事か?とか飯が食えないとか、矛盾性を突いて大人のせいにしたり社会のせいにして文句を言う人がいるが、夢は自分がどう管理するかであり、夢自体には良いも悪いもない。自分が夢は大事だと思えばそれでいいし、不要と思えばそれでいい。全ての責任は自分にある事を自覚せねば、常に他人のせいにして文句を言い続けて生きる羽目になる。夢は喜びも悲しみも全て生み出す。当然そこには不条理も含まれている。それをどの様に受けとめ、どう認識するかで夢の価値は決まってくる。つまり全ては自分自身である。夢のせいじゃない。

人間褒めれば伸びる。しかし褒められなくても自分で伸ばして行く事が自分の責任である事を学ばせなければ何の意味味もない。我々が知るべくポイントは、褒めなくても出来る人間と褒めないとやる気が出てこない人間の違いである。何故そこには違いが生じてくるのか?自分自身でモチベーションを高めたり、自己啓発が出来ない人間は何が不足しているのか?そこをキチンと分析すべきである。

褒めれば伸びるなんて事は、データーが無くても既に知っている。

そして世の中は「出来る人間」と「出来ない人間」いる事を認識すべき。どんなに泣いても喚いても出来ない人は出来ないのである。持って生まれた肉体、精神、頭脳、の違いでのである。出来るやつを妬んだり、出来ない自分を卑下する様な事はしない様に教育すべきだろう。

そこには多様性が重要となってくる。出来なくてもいいのであると言う事です。できるから何なのでしょうか?表現は陳腐ですが「愚か」で何か問題でもあるのでしょうか?と言う事です。足が遅い?だから問題でも?みんなそれぞれ特徴があり得意不得意があり、優しいこ強いこ、泣き虫の子、いろんな人間がいるんです。そこを社会が認めるべきなのです。

大人や親自身が「出来ない」コンプレックスに縛られているので、出来ない事を認めたくないのです。だから差をつけるなとか、競争は良くないとか、論点がズレた過保護が増える。出来ない奴は出来ないのである。その自覚を徹底して持たせるべきなのです。自覚を持たない人間はアイデンティティーの確立ができない。人間頭がいい、足が速い、ピアノが上手、と言う事よりも、現実の不条理に立ち向かい、悲しくても悔しくても世間や他人を恨まず自分を律して前向きに生きていく力こそが最も大事なポイントなのです。

社会は色んな人がいる。頭のいい奴、腕っ節の強い奴、足の速い奴、ピアノがうまい奴、仕事が早い奴、遅い奴、五体満足な奴、そうじゃない奴、男や女、貧しい人リッチな人、ストイックな人怠け者、そう言った色んな人間がいるから社会であり世界が成り立っているのです。みんながリッチになる訳じゃない。つまり皆んなが同じレベルの金持ちになりたいなんて、これっぽっちも本当は思っていないのです。其々が其々の基準値があって、その自分自身の満足度合いで人は生きている。でも時に周囲を見渡して他人を羨む気持ちもあるけど、良く落ち着いて考えてみれば、本当に自分はそれを望んでいるのか?と思えば結構そうじゃない。

外国人が「日本は凄い」「日本人て凄い」と言うけど日本人の様になりたいか?と言うと答えは「NO」なのと一緒で、自分が何が好きで何を求めてどう生きたいのかキチンと自覚しているから、良いものと欲しいものと必要なものが分かるのです。例え良いなぁと思っても必要じゃないから別に不要なのです。ここが日本社会で欠乏している問題点といつも思います。アイデンティティーの確立が出来ていない副作用が社会に蔓延していると思います。

そこの教育をなくして、効率がどうの、褒める事がどうの、システムがどうのと言ったところで、土台が無いところに見栄えの良い家を建てる様なもの。

人間褒めればモチベーションが上がるが、褒められなくてもキチンと自分でモチベーションを保って前向きに生きていく事が大事なんです。自分は愚かなだなぁ、自分は下手だなぁ、自分は早く走れないと自覚した時に、卑下したり恨んだりするのではなく、前向きに生きる事。同時に自分は頭良いんだなぁ、足速いんだなぁ、ダンスうまいんだなぁ、ケンカ強いんだなぁと自覚した時に自惚れたり見下したりしない様に教える事が最も大事な事なんです。横並びの金太郎飴を生み出す事は決して良い教育とは思えない。皆んな違うし、みんな違って良いのだし、其々が其々の人生を生きれば良いのです。その為には自分という人間を確立する事が生きる力になるのです。自分を愛せない人間は他人も愛せない。自分を認められない奴は他人も認められない。自分を許せない奴は他人も許せない。自分を知らない奴は他人を知ることはできない。自分が出来ない事を自覚するから他人のできない点も理解でき、自分が出来る事を自覚するから、他人のできることも理解できるのです。

貴方は何が好きですか?

貴方は何が得意ですか?

貴方は何は嫌いですか?

貴方は何を求めていますか?

貴方は何処へ向かっていますか?

貴方はいったい誰ですか?