プラトンの手紙

古代のアテナイの哲学者プラトンは「民主主義から暴君が生まれる」と見抜いていました。

民主主義は多数決になり易い。そうなればロビー活動が重要になる。根回し。社内営業。事実の積み重ねよりも、「他人に自分の主張を信じ込ませる」ということが重視されてきます。

『事実を軽視して、感情に訴えて他人に自分の主張を信じ込ませる』というのは今日でもよくみられます。トルコ、イギリス、ハンガリー、ブラジル、アメリカなどの民主主義国家で、国家主義的な誇りを訴えて感情をあおる『反エリート運動』の扇動工作が行われています」

「エリートが一般市民を狩る」という映画「 The Hunt」はもともと2019年9月に公開が予定されていましたが、 テキサス州オハイオ州で起きた銃撃事件を受けて公開が中止されました。政治的な風刺と過激な暴力描写が議論の的となっていたThe Huntですが、新たに2020年3月の公開が決定されています。

エリート意識問題に関しての対策は「罪と罰」もあります。

これからの時代望むことは勧善懲悪の誰がヒーローで誰が悪なのか?という思考ででは無いと思います。自分が得意とする分野で活躍してる時に、足手まといの「出来ない人」にしがみ付かれたら、誰でも「こいつ邪魔だ」と思うのが人間です。多くの人達がルールを守り我慢している中、一部の人が勝手な振る舞いで社会に問題を起こせば「ルールを守れない奴は邪魔だ」となるのが人間です。エリートは「できる側」の人間です。「できる側」「やっている側」から見れば「出来ない側」は邪魔なのです。世を乱す存在なのです。これは普通の極ありふれた人間感情の一つです。「エリート排除」は結果自分を殺す事に繋がって行くのに気づかないのが民主主義の危うさです。

時代は「マイノリティーに手を差し伸べる」がムーブメントになっています。表舞台だけはなく裏方にもスポットライトを!と言う思考の延長線上です。「皆んな一緒」「偏見、決めつけ」は良くないと言うムーブメントです。

これは「刷り込み」と言う日常への問題提起と似ています。何気なく思い込んでいるけど「本当は違うんじゃない?」と言う投げ掛けです。「理性」への呼びかけになります。

おおかた民主主義は多数決であって、感情論が先行する社会です。ですので民主主義においては法律は社会のニーズによって変化します。法律は社会や人間の為の「道具」ですから、自分達社会に不都合となれば「道具」を改善するのが民主主義です。感情に訴えていき周囲へのすり込み作業が重要となる社会、民主主義故にモンスターを生み出して行く結果を生み出す時があります。本質、事実よりも「周囲の説得」「標確保」がメインとなるからです。ここに民主主義の限界が見え隠れします。人間は何とでも理屈を創り出せます。

「理性」への呼びかけ、日常の刷り込み、日常の積み重ねが「狂気」を生み出す怖さを映像化したものがあります。

 

このフィルム何も説明を受けなければ意味がわかりません。

1回で気づいた人は、普段から精神をニュートラルにして生きている方でしょう。

気付かない方は「エバン」の背後をズーッと見ていきましょう。

日常の何気ない積み重ねがモンスターを生み出している事に気が付きます。極ありふれた光景ですし、同様の状況下に於かれてもモンスター化されない人達が多いもの事実です。しかし一部の人間はモンスター化するマイノリティーのです。

性的マイノリティー、人種のマイノリティー、身体的マイノリティーに愛情の手を差し伸べるなら、日常の積み重ねでモンスター化した「非道なマイノリティー」極悪人にも愛情の手を差し伸べましょう。映画「ジョーカー」のテーマにもなります。

人間は動物です。

日常の刷り込みなどに飲み込まれないようにする一つの方法は、

泣いて笑って愚痴を溢して時には人に甘えて、自分に甘えて行く事が大事なのです。エリートがモンスター化する背景には「弱さが許されない」「出来て当たり前」「どうして自分だけが」などの抑圧が強く、その抑圧に勝つ為には「並」の思考ではダメな場合が多いからです。簡単に言うと苦労しているからです。苦労して苦労して努力して頑張って「できる側」「我慢の限界」に立った時に、甘え思考やいい加減な無責任思考の人間が自分の道に入り込んで邪魔でもしたら、その「できる側」「我慢している」の人間の脳は「排除」信号をだします。つまり邪魔者は「殺せ」と言う思考が生まれ始めます。社会を乱す奴、自分を邪魔にする奴、革新の邪魔になる奴、反対意見の者、そう言った対象は邪魔者となり排除の対象として認識し始めます。ここに「反エリート思考」に拍手を贈る状況が生まれてくるわけです。

 

お気づきでしょうか?????

「エリート」が排除思考によりモンスター化していくと同様に、出来ない側は「反エリート」思考と言うモンスターを生み出しています。モンスター化する一方への対処のために人間はもう一つのモンスターを生み出して行くのです。

民主主義の危険性が見えたでしょうか?

だから勧善懲悪で、誰が良いいとか誰が悪いとかの思考を、いい加減停めなければいけません。民主主義の限界が見えた、資本主義の限界が見えただから「それらを否定する」思考は停めなくてはいけません。

光あるところに影は有るのです。貴方は天使にも悪魔にもなれるのです。全ては、どう扱うかによって意味を生み出し、その意味の価値付けをしているのは人間です。「エリート」そのものが良いとか悪いとかじゃないんです。民主主義がダメという事じゃないんです。問題は人間の心、思考、なのです。そして日常の繰り返しが、如何に人間の思考に大きく寄与するのか、その怖さを理解すべきです。

人間はプラトンの時代からこの矛盾の回廊を彷徨っています。

それは光と影を切り離そうとす愚かな意識から脱却してないからです。矛盾は切り離せないし、矛盾は悪ではないのです。矛盾はそのままセットで受け入れる事柄なのです。自分の天使と自分の悪魔を受け入れましょう。自分の良い面も自分の弱さも受け入れましょう。そして自分の矛盾を受け入れたら、他人の矛盾も受け入れましょう。

故に「自分の言動に責任をもつ」という事が如何に大事な事なのかを理解しましょう。

ミスをしない人がベターなのではなく、自分のミス、自分の弱さを認めて、その上で這い上がって行く姿勢こそが人間を人間として育てて行く栄養なのです。人間は動物なのです。感情と理性を兼ね備えた動物で、道徳を好みますが背徳も好むのです。失敗もするし、いけない事もしたいのです。それが人間という動物なのです。

モンスター化しない為に、自分の勝手さ、弱さ、未熟さ、ズルさ、傲慢さ、そう言ったものを素直に認めて、その上でそれを抑え込むのではなく、どうすれば強さと弱さ、理屈と感情、寛容さと我がままの両立を図り、調和を生み出せるのか?を議論すべきと思います。

他人を非難する事は、自分の首をしめる事になる。他人の傲慢さを許せる為には、自分の傲慢さを許せないといけない。自分を愛せなければ他人も愛せない。自分の弱さを認めない限り、他人の弱さに寛容になれない。傷つける痛みと傷つく悲しみの両方を認識しなければ、本当の痛みは理解できない。我がままに生きれば、他人の我がままを笑って許せる様になるものです。

この調和をどうやって自分の中に生み出して行くのか、調和を保つ力こそが「生きる力」となり人間を育む基礎になると思います。自分も他人も排除してはいけない。数千年もの歴史を持つ人類は、未だにこの回廊を彷徨っているのです。