お元気ですか?人間やってます?

人間のイラツキなど、寛容性の欠如は、生活環境からの影響を大きく受けると言う会話が話題となっていた。全くその通りと思える。

でも日本は60年代以降「なんか忘れていないか?」「なんか大事なもの失っていないか?」と言い続けて今日があるんだよ。

同じ会話を60年近くしている事になる。

生活の為、家族の為、子供の為、自分の為に、、、、

毎日稼いで頑張ってイラついて身を細めながら生きも潜めて、火の粉をかぶらない様に周囲に気を使い今日も余計な目線も合わせず、同じ歩幅、同じ服、同じ息遣い、同じため息で時間を過ごしている。

あなた方はいったい何が欲しいのか?いったい何がしたいのか?

寛容性を持ち、絵に描いたような紳士淑女になりたいのか?

そん事はどうでもよくて、自分が良ければそれで良いのか?

日本人が寛容性を失っているのは、社会環境ゆえに異常をきたしている。日本人だからではない。だから労働環境含め社会環境を見直し、心に余裕を持って生活できる様に見直そうと議論が湧いている。

又過去の繰り返しか????????

人間と言うものは千差万別。

環境によって意識や思考が左右され影響を受けながら生きていくタイプが実際は大方の人間と思う。戦争がいけない価値観、犯罪者保護のシステムもこの環境による影響が人間にとって大きいと判断しているので存在している。

しかし環境にる影響をマネージメントして、常に自分の心から発生し得る思考や意識を重じて、どんな環境下でも寛容性や善意を維持している人間たちも世の中にはいるのである。セルフマネージメントができるタイプ。

同時にどんな時代でもどんな環境でも、自分さえ良ければ良いんだと言う極端な自己中心の人間も存在する。異常者と呼ばれているタイプだろう。殺人で快感を得る、他人の苦しがる言動が大好き、などのタイプも間違いなく我々の人間社会には存在するのである。非常に動物的で自分に正直なタイプが多い。

法律と同様、絶対公約数で行くならば、大方のマジョリティーを基準値とした議論を繰り返せばそれで済む。当然大方のマジョリティーと言うものは、環境によって流され易い為、今日の常識は明日の非常識と化す事を容認しなければいけない。思い出して欲しい、過去にどれだけの人間が時代や民衆の犠牲になったかを。戦争中に「反戦」を訴えれば「非国民」と罰するのがマジョリティー基準の社会なのである。戦争放棄をうたっている憲法があるが、いざ他国が攻めてきたら憲法改正、自衛の為の戦争開始と切り替えるのが法律であり、マジョリティーシステムの社会というものである。それが大方の人間と言う動物。

民主主義と人は簡単に口人しているが、大方の認識は多数決、つまりマジョリティーシステムを民主主義と呼んでいる。時代やニーズの変化で生き延びようと、都合良く切り替えていこうとするこの動きこそが、冒頭の議論と同様の質のムーブメントなのである。つまり「疲れているから」「傷付いたから」ちょっと待ってよ、なんか違うよね、これで良いの?って誰かが声を上げるが、喉元過ぎれば何もなかった様に違う事を言い出すのが多数決社会のムーブメントなんだ。

何度も言うが「売れたらそれで全てはokなのか?」「結果さえ出せばそれで良いのか?」「自分さえ良ければそれで良いのか?」「お金を持てば幸福になれるのか?」「金じゃ買えないものもある」「人生にとって大事なもんはなんだ」「幸福っていったい何なんだ?」「みんなもう少し落ち着こう」「お互い助け合おう」こんな議論を日本社会は60年も繰り返し、今日も満員電車の中、目線を外し、息遣いを殺し、イラつきながら生きているのが、日本社会。

この多数決民主主義の影は何も日本だけではない。ソクラテスは正にその犠牲者である。何千年前から人間の危うさはコレっぽっちも変わっていないのです。当時のローマは発展の勢いが有った。セレブリティー達が社会に大きく発言力を伸ばしていた。その中でソクラテスは「あなた方自分の子に教育をするのに誰を雇うのか?あなたの家を建てる時に誰を選ぶのか?音楽を学ぶのに誰を探すのか?では何故政治を託すのにオリンピアンやセレブリティーやお金持ちを選ぶのか?民衆は愚かなり」と演説した。コレが世に言う「民衆侮辱罪」で、彼は死刑判決を受け、死刑になる。

この時代のローマ人と現代社会の民衆に何の違いが有るだろうか?やっている事述べている事、社会現象として表面化している事、コレっぽっちも変わってはいない。日本が戦後「大事なものを忘れて進み過ぎたのではないか?」「心が飢えているのは何故んなんだ?」映画や歌に涙し感動を呼ぶ作品を60年以上も繰り返しているのは当然の事である。その根底は環境に左右される大方の民衆を基準値とした多数決民主主義が流れている要因が大きいからと言える。

貴方は何が欲しいのか?

貴方な何故生まれ、何処へ向かって生きていくのか?

貴方は何がしたいのか?

貴方は如何ありたいのか?

昔から日本人は「夢」がない。どうしたいのか?何の為に生きているのかはっきり出来ない国民と言われているが、当然のことなのである。

欲しいもの、なりたいもの、夢などと言うものは時代やニーズによって左右される社会で生きている為、決められるわけもなく、今日「カレー」が食べたいと叫んでも、明日にはやっぱり「とんかつだー!!」と気持ちが変わるものだ。そんな紆余曲折する社会や意識の中、一つの真理に生きようもしないし、求めもしない。右往左往するのが生き方なんだ。

毎日、薬物や不倫騒動で騒いでいるが、時代が変わればコレもまた価値観は変わっていく。個人の自由の世界だからだ。誰を愛して何を楽しもうが根本的に個人の問題なのである。たまたま現代はそれを許さない多数決社会なのである。

「自分探し」と言うムーブメントも有った。探しても探しても見つからず結局「コレで良いのだ」と落ち着くしかない。何故ならばその心が日々変化していくからである。無数の幸福が見えてしまう。「え〜いったい何が良いの?」と陥ってしまうのがオチ。

環境に左右される動物が人間であり、その中には環境に左右されずに生きれる人間もマイノリティーとして存在するし狂人も同時に存在する。それが人間社会なのである。

繰り返しを「愚か」と思えるのか「そう言うもんさ」と思えるのか?

右往左往を「仕方がないさ」と思えるのか、思えないのか?

人間の影をどう見ていくのか???

 

もう一度言うけど、、、、

寛容でありたい、愛されるより愛してあげたい、世の中全て金じゃないと思っている貴方の中に、自分さえ良ければ良いじゃん、バレなきゃ良いじゃん、愛される方が楽だよね、金さえあれば大方問題ないよねと言う自分がいる事を許してあげて欲しい。社会に対し、周囲の人達に寛容でありたいなと思っている貴方の中に、面倒クセェ、どうでも良いじゃんそんな事、と思う自分がいる事にも気付いて欲しい。さっき「酷い言動」を取ってた人が、場所と時間が変われば「良い人」になっている現実を見て欲しい。

千差万別の「人間と言う動物」なのだが、皆一緒なんだと言い切れる側面もあるのが人間と言う動物なんだ。「みんな違ってそれで良い」も正解、みんなで苦楽を共にするんだから「画一性も必要だよね」も正解とするのが人間なんだ。

心に余裕を持とうよ!幸せかい? 愛してるかい?

愛してくれよ!勝手にさせてくれよ!俺は俺だし!私は私!

手を繋ごう!邪魔なんだよ!心遣い大切だ!時間の無駄!儲ければそれで良い!客は神様さ!騙して儲けても、嫌な思いして儲けても楽しくない!年収1億って言ったって生活がこんなに多忙で、家族をも犠牲にして、本当にそれが欲しいもの、やりたい事なの?どんな正論ぶったって金が無けりゃ学校も病院もいけない。強くありたい!逃げたい!やっちまえよ!怖いんだ!頑張ろうよ!もう無理なんだ!そう言った言葉は全部貴方の中にあるんだよ。

貴方と僕は違うんだけど同じなんだ。