Bombshell スキャンダル

FOXTV内部のセクハラ問題を描いた作品。非常に思いテーマの作品で観る人の捉え方に多くを委ねる作品と思いました。

メイクアップアーチストの辻さん「日本文化が嫌いで日本を出て、今私はアメリカ人です」と明言してましたが、日本では日本人と報道されている様です。この映画の思い入れは何となくわかる様な気がします。

さて本題の映画ですが、観る前は勧善懲悪的な映画なのか?と思っておりましたが、観終わった後、非常に重い感動を受けました。

作品の見方、捉え方は千差万別ですので、どの様に見ても楽しんでも問題ないと思いますし、ここで書く内容もあくまでも個人の見解です。

先ず、話題のセクハラですが、、

人間が社会を営む以上、不滅の存在であると再認識しました。善悪の問題ではなく、存在そのものがなくなる事は無いと思います。売春も同様です。この世に男と女という動物がいる以上、性的関係を営む人間は不滅です。それをセクハラ、売春、不倫などと区分けして問題視するのは人間ですがね。

更に今回の映画は勧善懲悪ではなく、何故この問題が解決に向けて困難なのかを訴えている様に思いました。

①人間は性的関係を望む動物

②人間は自己利益の為に行動を取る

③人間は「失う」恐怖に怯える動物

④人間は自己防衛本能が働く動物

⑤過ちに目を瞑り得たものは、自分や家族を幸福にするのか?

などのテーマが書かれていた様に思います。

先ず女性が性的問題で声を出せない背景ですが、地位や名誉や収入を失う恐怖に勝てない点や自分に過失があった事を認めたくない心の問題があります。この映画のグレッチェンやメーガンは「セクハラに甘んじる事で自分は今の地位位を得た」事を認めています。単なる性的被害者としては存在していません。この捉え方が非常にアメリカらしと思いました。日本では伊藤詩織さんのケースが話題となりますが、彼女は「自分は被害者」としての訴えをしておりますが、グレッチェンもメーガンも「自分はそれを利用した」と明言しアクセプトし、被害者ではなく「自分は間違ってたのでは?」と自分の言動を公開することで問題定義を起こしています。責任性の度合いの違いです。非常に成熟した存在です。

レッチェンもメーガンも自分の言動に責任を取っています。この勇気に世界は感動しているのです。

特にグレッチェンはTEDなどでも明言しておりますが、彼女の娘を思う愛情から自身の勇気を奮い立たせたと述べています。自分がセクハラを受け、それを利用しのし上がってきた過去を曝け出す事は、家族へ大きな被害をもたらします。しかし彼女はその恐怖よりも「娘への愛情と言う剣」を手にして立ち上がります。自分を曝け出します。そして学校で苛めに遭う娘さんも「母親の勇気をプライド」に彼女自身も社会と戦います。そして家族みんなで社会と戦い、自らの手で幸福な家族を築き上げていくのです。ここが個人主義社会の最大の魅力と感じました。依存社会では生まれ難いでしょう。メイクの辻さんが「日本文化が嫌いです」と明言していますが、恐らく社会と戦った自分の経験とグレッチェンやメーガンの戦う姿に自信を重ねたのではないでしょうか?

レッチェンも明言しておりますが、娘さんが「私は過ちを告白し、更に勇気を持って社会と戦う母を尊敬する」と述べております。どれだけ娘さんの言葉がグレッチェンに於いては大きな愛に感じられた事でしょう。愛すべく小さな娘によって、傷ついた母親は愛されます。家族とはそう言うものです。素晴らしい家族です。そしてそれを作り上げたのは彼ら全員の努力です。偶然の賜物では有りません。

彼女達は「過弱き被害者」では無いのです。過ちを犯した故に疑問を抱き、社会に問題提起を起こしている勇気ある女性達なのです。

冒頭にこの様な性的問題は不滅と書きました。今回ハリウッドのワインスタインのケースもそうですが、FOXのケースもそうですが、あくまでこの様な問題は需要と供給の関係に存在します。

男性が社会的権力者、女性は性的行為を自分の利益を得る為に使っても構わないと言う価値観の人間だったらどうでしょう?スパイなども同様ですね?情報を得る為に性的行動もいとわない。売春もそうです。不倫もそうです。お互いの利益が合致して居れば一切問題視されることでは無いのです。人間がいる以上一定の割合で、このタイプは不滅です。これは認めざるおえない真実でしょう。映画でも描かれていますが、もしグレッチェンが解雇されずに今でもFOXの顔として存在していたら違う結果となった可能性も否めません。グレッチェンは解雇になって初めて腹を括ります。

男と女とが存在する社会。必ず恋愛感情は生まれます。好みの相手には気を許します。自己利益の為に人間はずる賢く振る舞います。そして一旦手にした物を破棄するには、本当の勇気を要します。容易な事ではありません。過ちや悪と呼ばれるものは善を生み出す事も真実です。光あるところに影があり、善は悪で悪は善なのです。

政治家がいい例でしょう。どんなに正論を述べても権力を手にしない限り街に橋一本掛けられません。病院一つ誘致できません。権力を手にするには悪に手を染めなければのし上がれない現実もあります。

貧困社会も同様です。正論だけでは生き延びれません。盗みも必要かもしれません。そして人間は自己防衛に走ります。「今日の私の罪は、必ず将来大志を持って償います」と。つまり善を行う為の必要悪と言う価値判断を生み出すのが人間なのです。

利益を得る為の必要悪。善を行う為の必要悪。

これは決して「犯罪」だけのケースではありません。単身赴任、会社への滅私奉公、上司への忠誠、周囲への異常なまでの気遣い、などなど、根底は一緒です。「家族の為」「我が子の為」「愛する人の為」と自分の本心とは別に、人間は行動を取ることができ且つ正当化します。前にも書きましたが「単身赴任」のバラバラ家族は、外国人から見れば「既に家族じゃない存在」になるのです。しかし日本人社会ではそれも一つの家族の在り方となります。人間が創造する価値観の相違ってやつです。

そしてメーガンやグレッチェンの様に、あれはマズかったなぁ「自分に罪悪を感じて得たものは本当の幸福ではない」と言う価値観なので、立ち上がったわけですが、日本のバラバラ家族同様、価値観相違で「別にセックスくらいエンジョイするし、それで利益があるなら全然OK」と言う価値観の人達もいるのが人間社会です。そう言う価値観の人にして見れば、セクハラ、不倫、売春なんてどうでも良い問題と化します。

問題提起を起こした彼らは「行動する前にちょっとだけ考えてみて!本当に貴方それでいいの?そんな事して得たもので幸福になれるの?私は違ったは。全てを投げ捨てた時、私は幸福になれたのよ」と言っているわけです。あなたはどう思うのか?と聞いている訳です。

決してセクハラ男の下衆な豚野郎がダメなんだと言う勧善懲悪じゃないんです。

「私はSEXで金や地位が得られなら全然問題ないし、それをドンドン利用したい」と言う価値観の女性ならばそれでいいのです。

我々大人が責任を取るべき問題点は「子供や病人や自分自身をキチンと管理できない人間に漬け込んで、強要してくる犯罪」を減らす事です。犯罪はレイプであり、ハラスメントです。拒否する者を押さえつけるのは犯罪です.

脅す側は罰せられべきです。

一方大の大人が「怖かった」「失いたく無かった」「恥をかきたく無かった」などと子供じみた言い訳する側にも責任を追及すべきです。「自分の言動に責任を取ると言う勇気」を今回の映画は描いています。自分自身の言動に責任を取れない人間は社会人として大人として未熟なのです。この「自分の足で立つ」と言う事を大人は子供達に伝えて行くべき問題点なのです。

正にグレッチェンとその娘さんの関係です。

過ちを犯すのが人間。過ちを恥じるのではなく、弱さを誤魔化す自身を恥、勇気を持って自分で立ち上がる事が最も重要な事ななんだと伝えていると思います。言うが易し、非常に難しい重いテーマです。

冒頭の

①人間は性的関係を望む動物ー相手と自分の関係次第。嫌いな相手なら拒否反応示すが、好みの相手なら表面化し難い。

②人間は自己利益の為に行動を取るー個人の道徳価値観の線引きがどこになるかで決まってくる問題故に画一化は不可能。

③人間は「失う」恐怖に怯える動物ーその恐怖が努力を生み出し、進歩も生み出す為、この恐怖を消し去る事は不可能。

④人間は自己防衛本能が働く動物ー必要悪という価値観を生み出す為、コレまた不滅の無限回廊

⑤過ちに目を瞑り得たものは、自分や家族を幸福にするのか?ーコレも個人の価値観次第。それで幸福と思える人間がいるので、やはり消し去る事は不可能。

結局、不倫や社内恋愛、売春やスパイ活動、などの性的活動は人間が存在する以上不滅なのであり、問題は貴方自身なのです。

皆んなが言うからではなく、周りがそうだからではなく、全ては貴方自身の問題なのです。相手が悪いだけじゃない。結果を生み出した要因の一つに「貴方の選択」の責任が存在するのです。

「男と二人で飲み行った」と言う責任

少しでも「良いかなぁ」と受け入れた責任

「家族のためかな」と選んだ責任

「業務の為かな」と選んだ責任

「仕方がないさ」と選んだ責任

全ては貴方自身が答えを選んで行動をしてるんです。そこに先ず自分自身をおきましょう。責任を取る事が問題提起への第一歩なのです。そして価値観は千差万別存在すのです。

Bombshellは非常に考えさせられる切り口の映画と感じました。

特に今の日本は「責任を取る」事を忘れいるように見えます。権利の主張の前に責任を先ずは取るべきです。問題提起を行う前に先ず責任を取るべきでしょう。

不倫だセクハラだと騒ぐ前に、貴方自身の責任のあり方を再認識し、千差万別の価値観を受けいれ、その上で自分で考え、自分で選び、自分の足で生きて行く事です。貴方は誰ですか?貴方は何が好きで嫌いで、何処へ向かって生きているのですか?と問いかけられている映画でもあると思いますよ。誰が悪で誰が被害者と論ずる映画ではないと思います。個人主義の世界でも重いテーマです。依存社会の日本ではどの様な見方をされ、どの様な捉え方をされるのか?決して大きなヒットとはなり難いと予想します。