恋愛至上主義

一夫一婦制が日本に導入されたのは明治13年 1880年

同時期に「青鞜」で論争が起きた

「‘女がパンのために体を売るのは是か非か」

兎に角今から140年前と言うか、正直1960年代位まで恋愛は結構自由に行われていたと思う。もっと前は現代同様、異性、同性のセックスは普通だったしね。

結局人類は、上記の問題の答えを定める事は出来ないのだろう。聖書によれば人類初の職業は「売春」ですしね。何千年と継続しているんです。

人間動物なので、好きになる、やりたいと感じるのは本能であり、それを理性の鎖で縛り管理しようとしても無理があるのだろう。

右手に聖書、左手に武器と同様、一応聖書を持って律するが度を越さなければ本能部分もそれで良しと言うのが答えなんだろう。

上記の問題の回答は、是であり非である。個人の自由なんですよ。

好きになった人が妻子持ちだっただけだし、、、、正直な気持ちだろう。

当然、相手の方のことを考えろ、家庭はどうなる、子供はどうなる責任云々の見方生き方もあるべきで、意見、価値観は多様にあれど、最終判断は個人なのです。出会いは計画してできる事じゃないし。心のトキメキも管理してできる事じゃないし。人生どこどどうなるかは誰もわからない。一度きりの人生、好きに生きれば良いと思うけどねぇ。

不倫であれ何であれ、愛がある関係するのは不道徳なのか?

女性に純潔を望むなら男もね!!

男が上半身裸OKなら女も一緒だ!

自由恋愛と言いながら道徳観で縛りを入れるのが人間なんだろう

当然「持てる者と持たざる者」の格差による妬み、引っ張り合いも生まれる

LOVE IS BEST     LOVE IS ALL     LOVE IS LIFE

恋愛事は個人の問題であり、周囲はお節介しなくても良い様な’‘気もしますがね

勿論、生命の危機に関する様なレイプやストーカーなどは、恋愛ではなく犯罪なので被害者を生み出さない様、世間も注意を払ってあげるべきと思います。

クリスチャニティによる同性セックス否定論は、子孫繁栄の側面も考えての策略だったと思いますが、結局人間の心は誰にも縛られる事なく自由に在りたいのが正直な生き方だと思える。誰もが自由であるべきだし、自由に生きていけば良い。

その中で社会には「ルール」と言う法律などが存在していくるが、時代や人々のニーズに併せて変化させていく部分もあるだろう。何故ななば「ルール」は人間が住み易くする為の「道具」故に、その道具が不便になれば見直すのが人間である。当然「ルール」にも普遍と変化の両面を要しますがね。

人間は動物である。恋愛は自由であり国家や宗教や政治に管理されるべきのもではない。恋愛は心の自由であり個人が管理すべき問題なのであろう。現状の日本はまるで中国の文革時代の様に「これ以外は認めない」とばかりにSNSなどで超極度な画一思考をムーブメントにし、集団で人間の自由意志を閉じ込めていく。多数決の影の部分であろう。

140年前の日本の方が、斬新で且つ現状打破、常識打破への意識は強かったと思う。特に知識人たる者達は率先して従来の常識に疑問を投げ掛けながら生きて死んでいっている。「愛する者を欲するに誰に遠慮が要るものか」手に手を取って愛に執着し生きていた。

明治末期から大正には、恋愛をめぐる文化人の事件が数々あった。
 一九〇九 漱石の弟子の森田草平(既婚)と平塚らいてうの心中未遂事件。
 一九一二 北原白秋と人妻松下俊子との不倫(松下の夫に姦通罪で告訴され、離婚した俊子と結婚するが後に離婚)。 
 同年   与謝野鉄幹と晶子の不倫(後に結婚)。
 一九一六 伊藤野枝アナーキスト大杉栄と神近市子の三角関係。
 一九二一 炭坑王の妻の地位を投げ捨てて恋人と駆け落ちした柳原白蓮事件。
 一九二三 有島武郎と編集者波多野秋子の心中事件。
 一九二四 中原中也小林秀雄と新劇女優長谷川康子の三角関係。

戦後、経済至上主義的な思考が蔓延し、日本社会は「お金」至上主義と化している。「お金の為」「生活の為」全ては其れを中心とした思考と生き方だけがベストとされているが、本来の趣旨が忘れ去られている。家族の為と言いながら家族はバラバラ。子供の為と言いながら子供は他人へ委託する。本当にそれで良いのならば何も問題はないが「男なんか不要だよね」と言いながら横目で男を探しているのは何故なのか?「世の中金だよね」と言いながら純愛ものの映画に涙しているのは何故か?「半端な情けは不要だよ」と言いながら、何故他人の思いやりや情けに期待する。「自分の為だし」と言いながら生きている割には、何故心が虚しいのか?そう言った普段のおかしな部分を置き去りに生きているが、本当にそれが貴方が望む人生なのか?

他人の恋愛をあぁだこうだと言う前に、自分は心身乱れる様な愛をしてるのか?「子供じゃないんだから」と大人びた発言をしているが、では何故他人の矛盾に寛容になれない?その「許せない」と言う感情は何処から来てるのか?

「どうして私だけ?」

「チョット人の話聞いている?」

「そう言うのって面倒だし」

「こっちだって疲れているんだし」

「チョット勝手なことしないでよ」

「こっちだって頑張ってんだ」

「うるさいよ」

「決まりだから」

「こっちの責任じゃないので」

そんなセリフが飛び交う日常。

本来自分たちの思うように生きているわけだから、ハッピーであるべきなのに日常の会話は余りに虚しい人達が多い様に見える。家族の為に頑張っているなら家族はハッピーじゃなきゃ。子供の為に頑張っているんだったら子供達がハッピーじゃなきゃ。自分の為に頑張っているんだったら自分がハッピーじゃなきゃねぇ。頑張っている頑張っていると言っている割に、何故幸福度合いがこんなにも少ないのか?

人間は動物であり知恵を持ち合わせている。矛盾を好み調和を要する生き物である。嘘はいけないと言いながら嘘をつくから人間なのだ。そして人間の知恵は嘘の光と影を作り上げていく。

自由に呼吸するには少しの勇気が必要なんだ。勇気が必要なんだけど、別に神になる必要はない。開き直りとも呼べる言動。犯罪はダメだけど、多少他人に迷惑かけても好きな様に生きれば良いと思う。自由恋愛、自由な意思。自由な発想に自由な生き方。金持ちも良いが貧乏でも良く、賢くて良いが間抜けでも良い。笑顔も良いが泣き顔も良い。真面目さも良いが不真面目でも良い。兎に角自分が何を望んでいるのか?そこをハッキリとさせて方が良いと思う。

他人の事より、先ず自分が何をしたいのか?何を欲しいているのか?もっと自分の心に耳を傾け、半分開き直って思うように生きてみれば良いような気がする。皆んな善人面しているけど、所詮同じ人間、嘘もつけば妬みもするし、勝手さもあるんだ。問題はその矛盾を隠したり、排除することではなく、どのように責任を取り、管理していくかが人間に出来る事なんだと思う。人間は嘘をつく、人間はズルくて弱い、人間は勝手で傲慢。それが人間なんだし、それ以上でも以下でもない。思考を排除ではなく、容認からスタートし、どの様に管理をしてくのか?に切り替えて行くべきと思う。