歴史
凡そ260年続いた徳川政権。
ヴェネチアは、7世紀に東ローマ帝国宗主権下の自治領としてドージェ(元首)が選出されてから、1797年にナポレオンが侵入し滅亡するまで1000年以上に渡って、アドリア海の北岸のヴェネチア(ベニス)を首都として栄えた共和国とされている。
19年10月19日パリのオテル・デ・ザンヴァリッドにある歴史的建造物サン=ルイ教会にて、歴史上の偉人ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン一世)の子孫ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルト(33)とマリー・アントワネット(享年37)の生家、オーストリア・ハプスブルク家の末裔オリンピア・フォン・ウント・ツー・アルコ=ツィネベルク(31)の結婚式が執り行われ話題となったが、そのハプスブルク家は第一次世界大戦終了迄の凡そ650年に渡り興亡を繰り広げた。
思いや説は色々有るんだろうが、紀元前660年から現在まで続いている日本国天皇家。
1700年から続いているスペインブルボン家。
そして日本の神話的存在から現在まで84代も続いている名家、出雲国造家。
歴史を見れば様々な興亡を見ることができる。
いつも思うのは歴史上の人物はスポットライト下の役者。その舞台を支えた脚本家、演出家、舞台装置に照明係など数多くの礎人がいたはずである。
今まで人類は表舞台のみ、勝者側のみの偏った記録のみで歴史を見て来たが、これからは、実際の交渉人や実際の戦略などを立てた人間。政略結婚や血縁交渉を生み出し、考え実施させてきた人々の記録も残す様に期待したい。機密事項に関する記録になるだろうが、キチンと残してもらいたいものである。
恐らく過去の人類は、舞台裏は「記録しては行けない事実」として葬ってきたのだろが、役者は台本のセリフを演じただけ。舞台を作り上げたのは、裏方である。そのお膳立てされた舞台の上で名演技を見せるのが役者。
スポーツも然り。選手を支えた人物達の興亡をキチンと記録してほしいと願う。
今年の大河は明智光秀。
本能寺の変の解明は未だに推測の域をでおらず、様々な説が飛び交っているが、双方若しくは多くの方面からの記録がキチンと残っていれば、少しは実態が見えて来ると思う。
坂本龍馬も歴史の教科書から消えていくとの事ですが、後世のイメージだけが先行し、史実に沿っていないケースも多発している。
どんな人間、所詮人間。
悪魔、天才、奇譚、などと呼ばれている信長でも、優しさはあるし、冷酷さもあるし、寛容性もあるし神経質さもあるし、すべてを兼ね備えた普通の人間であったと思う。その誰もが備えている性格の普通の人間が何故表舞台へと現れて来るのか?
運が良いとか悪いとかよく口にするが、それでは理論的に見ていない。
少なくても歴史学者や記録を残している人々は、更なる改善を求めて行って貰いたいと希望します。人間の目は前方180度が基本的視野。人間の思い込みで思考は出来上がっていく。人間は好き嫌いで動く動物。人間は損得で動く動物。
そう、人間は動物なのです。
どんなに知恵を習得しても結局人間は動物の域から抜ける事はないと思います。
善悪の両面を好む動物。
詰まり人間にとっての悪と言うものは、後世の知恵が否定した産物でもあり、本能の部分でもある。貴方にとっての悪は一方の善でもある事もある。貴方が好まないものは、一方が好むものでもある。従来の歴史は誰もが周知の様に一方の側の記録を元に言われ続けた傾向がある。知恵にとっての悪は、本能にとっての善である。
同時に記録者の意思も影響する。記録者の意思はその時代の価値感に影響される。当然善悪の価値観もその当時の価値観。戦国の世の価値観と平和な時代の価値観では違いが生じる。つまり言葉の意味合いが変わって来る。
当然、身内贔屓の意思も働く。
殺人などの犯人も、どの様にしてその悪が表面化して行ったのか?
砂の器や人間の証明の様に、多くの側面から犯人像を見ていけば多くの傍観者達は単純な勧善懲悪的思考にはなり難い。小説や映画が面白いのはそれがあるからだ。
通常の報道は偏った報道になる。ましてや似たような捉え方で競い合うマスコミ。一層の偏った意識を国民に植えつけていく。本来報道とは多面的な視野から事実と分析を行うべきと考えるが、現代は未だそこには至っていないと思う。
勿論、受け取る側も認識を改める必要性もある。今までは右か左か?上か下か程度の2者択一的思考で良かったかもしれないが、これからは左右上下斜めまで同時に視野に入れて多くの選択肢の中から自分の判断を決めていく必要性があると思う。
一人の人間を罪に走らせる背景は様々ある。経済背景、家族背景、固有の資質、生活環境、周囲の影響、時代背景、年齢思考、経験、多角的に一人の人間を見て辿って行った情景を読み解き、最終的に何がその人間を罪に走らせたのか?そう言った報道が出てくる事を希望したい。
当然各社捉え方に相違が出るかもしれない。当然報道機関の見方に同調も否定も出てくる。視聴率とかマスを対象に商売をしようとすれば踏み出せない点もあろう。故に視聴者、スポンサーも意識を変え、異論反論はあれど広告出費やサポート面は別物として捉えて、これはこれ、それはそれ的に客観的に対応できる様になっていかないといけない。
簡単に言うと、自社の不正問題をスッパ抜かれ叩かれても、それはそれで、従来の広告費などは継続して払ってあげる事。大人の対応を視聴者もスポンサーも取れなければ、結局マスコミも不都合な真実は誤魔化すしか道はない。
現在はメインスポンサーの悪を表立って報道すれば、当然圧力が来るだろう。本来それ自体が既に幼稚なのである。
人間が動物である証拠である。
簡単に「大人の対応」は取れない生き物が人間である。
ではどうするのか、、、、
そこが21世紀の変化点になって欲しいと希望します。
友人が自分の罪をさらけ出した。上司が自分のミスを、部下が自分のミスを曝け出した。自社の批判をされた、彼氏に家族の非難をされた、そういう時にお互い人間同士がどれだけ成熟した対応を取れるかが、時代を作り上げていく大きなエネルギーと思える。言うは易し、思うも易し、実際できるかどうかは貴方次第。
歴史とは常に一方の見方によって語られきたものである。
歴史とは一部の光を捉えたものに過ぎない。
これからの歴史はそこから脱却して、更なる公平性、客観性を打ち出せる様にして貰いたい。その為には多様性が重要になると思います。
多様性、精神の成熟度、自立度合い、、、
2020年、それらがキチンと見直されたら嬉しいと思います。