人望社会

何故日本社会では人望が重要視されるのか? 人望のある者と人気者の違いは何なのか?結論は日本社会は結果最優先ではない、依存型社会、農耕文化などが社会基盤になっている為だろう。

優秀な医者に人望は何処まで必要か?優秀なゴルファーに何処まで人望が必要か?優秀な経営者に人望は?優秀な経理マンに人望は?優秀なプロに何処まで人望と言うものが必要とされるのだろうか?技術、能力を主点にすれば、人望なんてもものは付加価値の部分であり、本来の能力レベルには何ら関係ないものであろう。本来「能力」が長けていれば尊敬の対象、評価の対象となるべきだろう。付き合いが悪くて、態度もさほど良くなく、愛想もなく、協調性無し。それが能力と何の関係があるのか?それが業務遂行に何の関係があるのか?それをやっ噛むものは、人間の感情、精神と言うものである。

人間は動物。

感情が付きまとう動物である以上、どうしても感情が判断を動かす。ましてや「今」の世界じゃなく元来農耕は「先の世界」。未来に向かって今準備を怠らないといけない世界。且つ日本は島国。囲まれた閉鎖社会で生き延びる必要がある。最も重要となってくるのは「協調性」そしてそれを取りまとめる「長」そこに人気者、人望の厚い者と言うニーズが生まれる。21世期の今でもこの社会基盤は変わっていない、組織を束ねるのに必要な事は「人望」であり「業務能力」ではない。

「人望」は一つの能力に過ぎない。「人望」が活躍できる環境はとりま求め役。調整役に最も必要とする能力でしょう。古からの地理的環境や外的環境の影響で育んできた日本社会。今でも重要視されるのは「調整役」故に世に良く言う「仕事もできない鞄持ちが出世する」と言う図式が当然の如く生まれてくる。自分達が「調整役」を望んでいるのに、事が起きれば組織非難。それは身勝手というものだ。若い社員が上司に何を望むのか?「業務能力」なのか「人望」なのか?それに寄って組織構成も影響される。

同時に会社経営に何が必要なのか?「人望」なのか「業務能力」なのか?元来経営に必要なものは「経営能力」であり「人望」ではない。ここが日本社会の最大の特徴と思える。日本型経営は「人望重視」海外は「能力重視」何方が正解とは言い切れないが、本来経営は「経営能力」重視であるべきだろう。

人望の厚い調整役は中間管理者であり、経営者ではない。

しかし日本社会は「どんな案なのか?」ではく「誰の案なのか?」の社会。故に的を得た案を述べても「人望」と言うものがなければ通らない。つまり優秀な者は下へ付き、調整役である人望者が上となり「あの人が言うなら仕方がない」と組織が動くのが日本。世界では自分の敵だろうが罪人だろうが、自分を殺しにきた暗殺者でさえ「能力」に長けていれば採用するし活躍できる。そう言う思考ができる能力の持ち主が経営者となって行く。正にマネージメント脳力である。

もう一つ日本を観て思うのが、脳力を見極められない人が多い。脳力とは何か?と言う点がクリアじゃない。トッププレーヤーはプレーヤーであり、監督じゃない。トップセールスマンは売り子であってマネージャーじゃない。マネージャーの能力はマネージメント能力であって、売る能力じゃない。マネージメント能力とはなにか?が明確になっていない事が多い。部下の者たちも「売れたから上司」「売れてないから上司じゃない」と思い込んでいる。社員も会社も「能力」と言う概念が余りにも不透明で明確に理解されていない。

更に時代は資本主義。資本主義の基準値は「お金」。そのお金を持った者が経営を担う。能力で決定するのではなく、お金を持っているかどうかで決まってくる。それでも世界はお金の保持者はお金をどうマネージするかに集中する。資金をどの様に増やすかのみに集中。人材がどうの指導方法がどう、労働環境がどうとかは二の次。つまり資金保持者は「資金に注目」その道具として人材を雇う。其処には「人望」は最優先事項になる事はなく、何ができるのか?「能力」が問われる。その時正しく、成果のでる「能力」を上に置き、下はそれに従う。非常にスッキリとしたプロ集団が出来易く、成果も短期間に出易い。その代わり自分が求められたプロジェクトが終わればハイサヨウナラ。次の求める能力保持者へドンドン移行して行く。この構図を活かすには社会の受け入れ構造が出来上がっていないと上手くいかない。詰まり自分の出番が無い者達が採用される迄の間、飯をきちんと食べられる環境が無ければ暴動になる。オンオフがキチンと作動し人生をキチンと自分の意思でマネージできる環境を要する。詰まり自立型社会。反対に日本は依存型社会。お互い支え合って成り立つ農耕社会。一緒に喜びも苦しみも共有し少しずつ積み重ね作り上げて行く。連帯社会なのである。其処では秀でた能力は時として連帯を乱す邪魔者と化す。古来から日本は天才不要論の背景が見えてくる。

又、チームワークと言う言葉があるが、その姿は一様では無い。5人1組の団体競争。5人で参加しその中のトップ記録が採用になるのか?5人の平均記録が採用になるのか?で組織、チームワークのあり方が違う。詰まり連帯意識のありか方がまるで変わってくる。トップ記録採用型は自分の記録に集中すれば済む。4人がボロ負けでも構わない。誰かがトップに立てばチームは勝つので「チームの為に自分が勝つ」と言うのがチームプレーに要求される事。一方後者は自分一人勝っても4人がボロ負けではチームは負ける。他の選手にも気を使い自分の記録だけではなく、他の選手の記録にも気を配り兎に角みんなで記録を作り上げる。其処に一人の天才がいても凡人4人とはチームは組めない。これが日本と世界のチームワークの違い。先ずは自分の持ち場に集中し、「自分がプロになる」チームワークと、一人が飛び抜けるのではなく、「全体で底上げ」をして行くのかのチームワーク。この方針が明確に分かっていない人が多いのが日本。そして日本は全体主義である。秀でた天才は優先順位は低い。

自分の人生を見つめた時、自分は何方を好むのか?其処をキチンと理解し住む場所を決めて行った方が自分の為と思う。何方が正しいではなく、何方を好むのかである。

組織の鞄持ちを否定しても始まらない。それは文化から来ている大きな礎であり、企業や個人が変えられる問題では無い。日本と言う社会は企業であれ、地域社会であれ、部活活動であれ秀でた天才よりも、周囲に気を配り周囲と共に足並みを揃えて、徐々に積み重ね作り上げて行く社会。自ずと現状の会社経営者達も銀行に踊らされるのではなく、自分の企業は一体どう言う生き方なのか?もう一度見直して、日本型経営はなら今日や明日の目先の結果に叱咤激励し騒ぐのではなく、過程も大事にいつ迄に何をどの様にして何処にたどり着くのか、その為に社員達は今何をせねばいけないのか明確なビジョンを共有すべきである。

平成以降の日本は、まるで短距離選手が10Mダッシュを繰り返し血眼になって頑張っている横を長距離選手が眈々と冷静な顔を通り過ぎたときに「お前は楽している、何で俺だけがこんなに苦しいんだ」と全く理解不可能な不平不満の叩き合いをしている社会。経済が苦しくなり焦った感もあるのだろうが、思考が浅く論点がズレたまま表面面の猿知恵が表通りを闊歩し、結果ロスト20年を作り上げた。高齢者に「働かない」と嘆くが比較するではなく、持場、役割の違いを認識すべき、若者に「こんなことも出来ない」と嘆く前に、何を求めているのかのビジョンと責任を明白に伝えるべき。未経験者に即効化を求めていたら、それは求める側が間違っている。高齢者に若い世代と張り合う体力、集中力を望んでいるなら、それは望んでいる側が幼すぎる。若く未経験の者達は20年30年先を観て今を生きるべきだし、高齢者は「動」の生産(量)ではなく静の生産(質)を打ち出し、結果として双方が組み合わさり組織は成り立つ。それが従来の日本型組織、経営だった。

不安意識も煽りを上げたのかもしれないが「今、今なんですよ」と過去も未来もどうでも良い様な風潮できたこの20年。どんなに時代は変わっても過去現在そして未来へと繋がる線は切れる事もなければ、全く違う線が其処に生まれる事はない。この点が線になり線が面を生み出して行く原理原則を見失った20年。結果日本は、日本企業は弱体化していると言って過言ではないだろう。

ポピュリズムが台頭し、横並びの平等意識が台頭し、履き違えた比較論で論破して行く。日刊、週刊、月刊、ラジオにTV其々が同じ報道を繰り返すが、其処には其々の役割があり存在している。しかし現実は各々が役割を見失い全てがごちゃ混ぜの人気取りだけに集中し質を落としている。20代は徹夜残業でも未だ無理がきく体力はある。それを50代、60代に要望する幼稚さ。30代の血気盛んな世代に達観した様な思考を求める浅はかさ。それと同様マネージメントに販売能力を求め、営業に経営能力を求め、経営に財務能力を振りかざし、全てがズレた内輪の競争に明け暮れている現代の日本。

問題が山積みになっている事を認識するならば、批判し合い己の立位置を確保する事に躍起になるのではなく、お互い得意とする能力を出し合い先ずは土台を立て直す事が先決と思う。

「人望」を重視する組織は長期に生き、秀でた天才よりも協調する凡人を活かす。短期的成果を望む事自体認識がズレている。

成果を早めに上げたいならば「能力」を採用すべきで「人望」ではない。「能力」に人材を合わせて行くべきである。