死 SCD

昨今日本で増加の一途を辿っている突然死

年齢、性別問わず増えている。

人間が産まれるまで十月十日かかる、しかし突然亡くなる時は一瞬。残された家族や友達は、その死の受け止めに苦労をしている。突然いなくなり、突然戻って来るかのようであろう。

2人に1人は心臓系の問題で亡くなっている様だが、他の半分の殆ども原因が分かっていない。高血圧、脂肪、糖尿など言われているが比率的に言えば、それらが起因しているケースは未だ半分も確認されていない。

医学会は原因究明が出来ていないのが実情であり、その問題も単純ではない。言い方の問題はあるが、日本医学会は「助ける医療」は既に停止している。人口問題、老人増加、医療費、介護労力、様々な問題が絡み、無理に助けるよりも「自然に任せて、苦しまない様に援助する方針」に切り替えて久しい。他にも医者の待遇面、当然医師の資質、精神面なども絡んできており、簡単に原因究明を強化できない現実社会がある。

結論から言うと突然死の原因はよく分かっていないのです。心臓が何らかの形で停止をしたのは分かっていますが「何故」が分かっていません。ましてやどうすれば?全く解明され取らず、すべては「恐らくこうだ」の域です。

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又、助けられただろうケースが有るのも確かです。

海外では誰かが倒れた時など救急車が来るまで、単に待っているのではなくパトカーや通りすがりの車などで、向かっている救急車に向かって患者を運ぶケースもあり、結果応急処置、病院への到着時間が早まり助かっているケースがあります。

日本は「誰が責任を取るんだ」と足の引っ張り合いで、倒れた人を動かすのはタブーです。文化の違いですので一概に日本の慣習が悪いとは判断できませんが、家族などにしてみれば「そばにいる方々、助けてよ」と思うのも素直な心情と思います。

夜いつもの様に食事して、いつもの様に寝て、そのまま目覚めないケース。これも一緒にいた家族は負担が大きい様です。「私が殺した?」「なんかいけない事をしたのか?」「異変に気づかなかったのか?」様々な思いが家族の心中に覆い被さってきます。その位突然死と言う現実を受け止める事は、難しい事だと思います。

人の死とは残された人間たちに大きな影響を及ぼします。

逆に言えば、事が起きてから考えるのではなく、事が起きる前に考えておきましょうと言う思考が「日々感謝を忘れずに」「明日死ぬと思って生きよう」などと言う思考が出てきます。人生正しく短し命。今を大切に生きる事も大切と思います。

人生100年と言われ始めておりますが、すべてに於いて保証され約束された未来なんてものは存在しません。日々何気なく繰り返しているこの時間というものは、非常に稀なことなでしょう。有難いと言う様に、存在そのものが非常に難しいことなのかもしれません。

恐らくいつの日か、突然死などの本当の起因なるものも解明されるかも知れません。今は様々な理由により解明はされておりませんし、直ぐに解明される事もないでしょう。

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人間はこの死と言う有限の恐怖に古今東西昔から立ち向かおうとしておりますが、未だに有限から無限へと脱する事はできていません。恐怖;孤独といったものに飲み込まれぬ様、うまく付き合うしか手立ては無いのでしょうが、心の何処かでいつ何時どうなっても良い様に準備をしておく事が、人生の視界を広げ精神を寛容にし、感謝の気持ちを取り戻し、有限の存在故の幸福と言うものを再認識するのかも知れません。

今日産まれたばかりの赤ん坊は未だ夢も希望も有りません。生命体だけが生き延びようと懸命に頑張ります。今日苦しんでいる人達は、必ず夜明けは来ると言い聞かせながら頑張っています。今日幸福の真っ只中にいる人達は、いつまで続くのか?などと不安になりながらも頑張っています。もう直ぐだなぁとお迎えを待っている人たちも、その時が来る瞬間まで頑張って生きようとしています。

人生は本当に喜怒哀楽苦楽の繰り返しのみ。今日友達と語り合う事が喜びでも、いつの日か子供の為に頑張る時間が喜びになったり、今日嫌いなタイプと思っていても、いつの日かベストパートナーに変わる事もある。最悪の日を過ごす事もあれば最高の日もある。嫌われる事もあれば好かれる事も有る。傷付けられる事もあれば傷つける事も有る。本当にいくつになってもそれらの繰り返しの日々の中人間は生きています。

自分は15の頃、この繰り返しに嫌気がさした。未来、繰り返しは無駄な時間と思っていた。何の因果か分からないが未だに生き延びている。子供の頃に思った通り「繰り返しだけの人生」の時間は間違って無いと思う。唯、その「繰り返し」が自分次第で「詰まらぬ繰り返し」となるのか「変化がある繰り返し」と判断するのか、生き延びたお陰で自分次第でどうにでも出来る事を学んだ。

今無駄と思っていても、今悲しいと思っていても、今日これ以上無理と思っていても、生き延びる事で想像できていなかった何かが見えてきます。少なくても与えられたこの人生、自ら悲観し閉ざす事は出来る限りやらないで欲しいと思う。もっと周囲と会話しよう。もっと周囲に声を掛けよう。

ありきたりの言葉しか出せないが、時代は巡る。必ず夜明けは来る。その繰り返しの中に生きる意味合いも見出せる。貴方が着ている服装が似合う似合わないは周囲が判断するもので、貴方の主観は単に好きか嫌いかしか無い。周囲のその判断は貴方にとって都合が良い時も都合が悪い時もある。しかし客観的に判断できるのは周囲の方である。勿論貴方人生、最終的には貴方が自分で自分に責任を負うのだから、貴方が最終判断者であり最高決済者である。だからと言って周囲を見下したり、周囲を無視したり、周囲を除外したりしては判断に誤ちを及ぼす事がある。

生命とは自分のものであり、他者のものでもある。貴方の人生は貴方のものであり又他者のものでもある。そう言った矛盾の世界に生きているのが人間という動物である。視野を広く思考を広くして目の前の生活にだけに閉じ籠もらずに、時には学校も休めば良い、時には会社も休めば良い、疲れたら休む事は自然の事。現実は周囲から直接間接両面でなんやかんやと言われ思われ、簡単に休む事はできないが、それでも貴方の人生、貴方の健康、貴方の時間である。誰に文句を言われる筋があろうか。キチンと自分を正し、前を向いて生きようとするその姿勢に誰が文句を言えようか。

自分がキチンと日々を生きる事に集中し、その姿勢を周囲に打ち出して行って欲しい。自分が誰なのか?自分は何が好きで何が嫌いで、何をしたくて何処に向かっているのか?先ず自分自身を理解して欲しい。それが最初のやるべき事。広く深く考え見つめ直して欲しい。自分というアイデンティーを構築する事。

それが死と言うものに立ち向かう最も大事な事であろう。