幸福なんてもんは

人間にとっての幸福とは永遠のテーマ

時代時代で得る物失う物、その繰り返しの中人間は思い悩む。

90年代迄は「自分探し」という言動が有った。80年代若者は「自分はいったい何を望んでいるのだろう」「自分はいったい何者だ」などと個々のアイデンティーを探ろうとした。

周囲はどんどん変わっていき、社会の中で自分を構築し、社会人としての人生を横臥し始めているのに、自分だけは何をしたら良いかわからない、何をしたいのかわからない「自分はいったい、、、」思い悩み「自分探し」を追求した。其処には、何とか頑張ろう、周囲に負けないよう、押しつぶされない様、自分も周囲と同様に出来るようになりたい、それ以上に出来る様になりたいと頑張る姿が常に有った。

その頃の人生幸福論は、経済的資本が基準だったと思う。お金が人生の基準値、先ずは経済的基盤を作れる様にならないと社会人として、人間として失格。幸福の基盤も遠からず経済的基盤に影響される。大金持ちなるならないは別として、周囲に置いて行かれぬレベルで様頑張る、向上する。

資本と言えば確かに経済的資本もあるが、文化的資本、社会的資本、生態的資本などもある。文化的資本は暮らしの豊かさで、有形無形問わず、音楽芸術、小説やスポーツなど文化面での活動。社会的資本はボランティアや周囲に対する積極的行動で係わり合う姿勢。誰かの為にと言う利他主義的資本。生態資本は肉体、健康になる。

この様々な資本を個々が所有、創造している訳だが、基本的に昭和までは「得る」事に幸福感を見ている。自分から探して「得て行く」

平成以降「得る」ではなく「ある物で済ます」

積極的働きかけ、努力、無理をする、苦労をしてまで「得る」事は激減した。「昼働いて夜もバイトして?そこまでして〇〇は要らない」車も別にベンツじゃなくて良いじゃん?彼女?無理して要らない、彼氏?自分が我慢してまで作らなくていいし、家庭?好きな事が出来なくなる、子供?邪魔。兎に角今目の前にあるモノを失わない為、それ以上もそれ以下も嫌。お金も別にそこまでして要らない。全部ソコソコ揃っているし、不便じゃない。

経済的資本の優先順位は落ちている。社会的資本も落ちている。文化的資本はどうだろう?健康は昔より多くの人が気にするくらい生態資本は優先順位が上がっている。これらの資本のバランスが個々にあって、自分が心地良い居場所を探している。「自分探し」ではなく「場所探し」

「自分探し」は創造、努力、積み重ねて行く、先々を見据えると言った「得て、積み重ね、将来に備える」と言う思考が強い。何故生まれてきたのか?何処に向かうのか?自分はいったい何者なんだと思い悩む。

「場所探し」は心地よさ優先、周囲比較ではなく自分の満足度優先、目の前にある環境の中で、何処が無難か探す思考。自分のアイデンティーは余り意識しない。生き延びて行くといより、何処が無難か、何処が安全か、そっと隠れ家を探す様に「自分の価値観で自分の居場所」に終始し「得る」じゃなく「あるモノで不便を感じない様にする」其処には自己肯定の低さも見え隠れする。競争したくない。負けるだろうからやりたくない。出来ないだろうから初めから望まない。それよりもこっちで良いじゃん、別にこれで良いじゃん。

有っても良いけど、無くても困らないし。別に嫌なことまで我慢してやる事じゃないよね。

根本的に人生の姿勢が違う。

根本的に幸福感が違っている。

昭和までは「物がなかった時代の延長線上」平成以降は「物が溢れ切った後の世界」

経済的資本と言う他(周囲)基準の「量」「質」ではなく、利己利益の自分基準「量」と「質」に変化したと思う。

勿論比較し良し悪し論ではなく、其々の生き方、嗜好でいいと思う。

そのジェネレーションギャップが大きくかけ離れている現代故に、コミュニケーションが難しい。一方は「新たに得る」事が基盤、もう一方は「ある物で足りる」が基盤。話が合うわけもない。

広がり、チャンス、などの世界観も違う。昭和までは「コツコツと、一個ずつ」宝くじはほぼ当たらない。

平成以降は「一回チャンスになれば一気に莫大に広がる」宝くじは誰かが当たる。

思考が全く違う。

現実の世界は「経済活動」にて生きている。やはり「お金」と言うもの、経済的資本というものに大きく影響される。人間の精神面では「経済的資本」は優先順位を下げ「利己利益」が優先順を上げている。しかし現実社会は「経済的資本」が基盤であり続ける。このギャップを人間は消化して行く必要がある。

今日、後進国として言われている他の国々が発展し、最新機器をドンドン持ち始め、ブランド物を買い漁って行く時代になり始め、日本人は「過去そうだったよね」と懐かしく笑みを浮かべながら慎ましく生きる。実際80年代には世界企業のベスト10に7社くらい入っていたが、今ではゼロである。20年前「日本人凄いよね」と尊敬の眼差しで見られていたアジアでも、今は同レベル視され、雇う側から雇われる側になりつつある。他のアジア人の上司に日本人が使われる様になり始めている。

この変化は本当に大きい。何も日本人が偉いと言うことではなく、変化が凄いという事。人間、何処の国の人でも所詮一緒。同じ人間だもの「出来る人もいるし、出来ない人もいる」その側面の論点ではなく、指導していた上司が役停を迎え、かつての部下が上司となって行く様な複雑な感覚になる。

今後日本はかつての「豊かさ」を取り戻す事は無い。

違う「豊かさ」「幸福」というものを探して生きて行くだろう。

「新たに得る」事を「幸福」としてきた世代には、本当に難しい時代になっている。「得る」基盤には助け合う、共有する、集団主義と言うものも並行してきた。自分が得た知識、技能は周囲に教える事が幸福であり「分け与える」事が結果自分が新たに「得る」手段だった。

 

利己利益世代の「幸福」は姿形を変えて、「分け与える」は消滅するだろう。如何に「手中のものを失わないか」が優先順位を上げてくる。全てにおいて自分のものは自分でする。高望みしないし、夢も見ない。非常に現実的な人生になって行くんだろう。寝ないで稼いでベンツ買ったところで、家庭が崩壊しちゃ意味がない。いい学校に行って、いい企業に勤めて、良いパートナーなんてものを得たところで、結局我慢、苦労の繰り返しなら、それも別に要らない。もしかしたら突然ビリオナーかも!なんて言いながら、慎ましく生きて行くんだろう。

幸福なんてもんは結構いい加減なものかもしれない