人生

最近この番組を観ているが何故かハマっている。

英国ロイヤルの話なのだが、ピーターモーガンという英国人が書いた物語。史実とフィクションを混ぜたドラマである。

この番組を観ていて、感じた事は「人間の未熟さ」である。

そして「TheQueen」の存在意義。

メアリー大皇后がエリザベス2世に断言します。

祖母のメアリー王太后は、エリザベスにもはや「1人の人間」ではいられないことを告げる。「2人のエリザベスは対立し衝突するでしょう。しかし常に王位、王冠が勝たねばなりません。どんなことが起ころうとも」

この言葉の意味が重い。女王位、ロイヤルの威厳なども含んで入るのであろうが「TheQueen」は人間ではないと言う事でしょう。

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周知の様に、英国ロイヤルファミリーは様々な人間模様を繰り広げている。不倫に駆け落ちに、名誉やお金、人間の欲望が表面化している。番組を観ていて思った事は、日本では有り得ないと言う事。英国、英国人、ロイヤルファミリーは未熟な人間性=人間らしさを否定していないからである。何千年と人間は幸福を求めて生き続けている。そしてそれは国民、人間の権利である。

人間は矛盾を好む動物である。平和を望んで戦争し、公正を謳いながら搾取する。愛してると言いながら愛されたい。昔「人間の証明」とは何かと言う質問があった。それは「未熟さ」であると言える。この「未熟さ」こそが「人間らしさ」詰まり追い求めている「幸福」なのであろうと思える。それ故に英国国民、社会はドロドロのドラマの様な「人間臭いロイヤルファミリー」を許容しているかも知れない。個人的な賛否はあれど、基本的に英国社会はこの人間らしさを容認しているのかも知れない。

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その人間らしい「幸福」を人間が求める限り、誰かが別モノとして君臨せねば人間社会は調和を保てない。全てを犠牲にして誰かが君臨、正しくそれが君主制で有り「TheQuee」なのではないかと感じた。その厳しさを熟知しているので「いかなる時もクラウンは勝たねばいけぬ」つまり、欲望、未熟さに勝たねばいけないと戒めたのではないだろうか。

唐代(618-907年)に書かれた唐代伝奇、そして凡そ100年前に和訳された芥川の杜子春杜子春は人間らしを保つ為に仙人になる事を放棄した。理想を放棄した瞬間、彼は日常の青い鳥が見え、人間としての幸福に浸っていく。矛盾を好む人間と言う動物は、この「未熟さ」に人間性を見出し統制された理想像ではなく「出来の悪い」手の掛かる子供に「幸福」を感じる動物なのである。その飽くなき「人間性」の追求を誰が否定できようか?それならば私が犠牲となって君臨します。国民は好きに楽しく思うように生きなさい。私は何時でも此処に君臨しています。それが「The Crown」君主制なのではないかと強く感じた。

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21世期、人類は何方へ向かうのか?

「未熟さ」を容認し「人間」としての「幸福」を今後も繰り返し求めていくのか?それともこの「未熟さ」を「人間らしさ」を求める事の愚かな繰り返しを止めるべく、次のステップへ向かうのか?

人間らしい、喜怒哀楽の繰り返し、その未熟さが何千年と愚かな繰り返しを生み出し、数えきれない犠牲者と涙の跡が歴史には埋もれている事実。これからの人間は「人間らしさ」を一旦見つめ直すのかも知れない。自分達の未熟さを恥、自らが律し、あるべきもしくは向かうべき道に進み始めるのかも知れない。

今の成熟度合いで見れば「無機質」な「遊びがない」「人間性の薄い」ガチガチの冷たい社会に見えるが、逆に一旦成熟度が違えば現代の方が幼稚に見えるものであろう。まるで子供が成長する様に、純粋さから強さへ向かう途中は人間は涙を流し、悩み苦しむものだ。大人はズルイ、大人は冷たい、大人は嘘つき、と子供達は泣き叫ぶ。しかし一旦自分が大人になれば、子供は純粋だ、大人になればわかるさと、その涙を微笑ましく見つめている。それと同じ様に、今我々が追い求めている「人間としての幸福」は「未熟さ」の土台に乗っている。母としての立場も理解できるけど、その前に私は一人の女よと言う。教師としての立場もあるが、その前に僕は一人の男だと言う。こう言った人間臭さが、様々なドラマを巻き起こしている。正に杜子春が追い求めた幸福が其処にある。

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我々はその「未熟さ」がプラトン以降、愚かな繰り返しの歴史を刻んでいる事実を認識しなければいけない側面もあると思う。

一人の人間の一生を見れば、どんな人も基本同じ道を辿っている。産声を上げ母親の腕の中に収まっているその人は、ベビーベッドへと広さを広げ、ベッドから部屋の中、家の中から家の外、街の中から街の外、どんどん一人の人間は生活範囲を広げながら、出会いと別れを繰り返し生きていく。そして子供としての存在から学生へと歳を重ねれば、その度毎に責任が生じてくる。学生としての本分、社会人としての本分、そして結婚すれば家庭を支える責任、子供ができれば子育てへの責任。親が歳をとれば親への責任。

様々な責任がその人に覆いかぶさってくる。まるでエリザベスが突然王女になり戸惑いながら責任の重さを感じながら、周囲を巻き込んで成長していく姿の様である。生きている環境、責任の範疇や重さなどは此処違うが、基本人間が生まれて死んでいくまでは同じ様な道を辿っていくものである。

「未熟さと言う人間の幸福」と言う自由

責任や理想と言った、「成熟した世界へ向かいたい」と言う足かせ

この大きな矛盾を個人がどの様に自己処理をしていくのか、、、

少なくても「The Queen」は、一人の女性、一人の母としての幸福は放棄せざる追えない人生である。その哀しさは自由を弄んでいる者達とは分かち得ないものである。自分の生きる世界は何処にあるのか?自分が全うすべき責任は何処になるのか?自由だ権利だと泣き叫ぶ前に、自分の責任の重さを考え直す事も重要だろう。