しがみ付く者

溺れている者を助ける時、焦って助けては行けない。溺れ切るまで待つ。そうしなければ引きずり込まれ援助側も一緒に溺れる二次災害の可能性がある。

この事実は歴史の繰り返しを生み出している。何故そうなる時があるのか?ならないケースとは何が違うのか?

もう一方で従順な羊達である「しがみ付く者」は自由を求め狂気と化す。

第二次世界大戦時期の日本軍、フランス革命の恐怖政治の実態、魔女狩りSNSなどの誹謗中傷など数多くの影の歴史を繰り返している。

ニュルンベルグ裁判の間、元ナチの将校たちは自分たちは命令に従っただけだと、残虐行為への関与の非責任性を主張した。正に大日本帝国軍人達も同様のセリフである。ベトナム戦争時の多くの兵士も同様だろう。戦争とはそ言うものである。本来一兵卒に責任を負わせてはいけない。彼らは命令で動いている。其れが組織、戦争という構図なのです。だから戦争はいけないと言うのです。企業で不祥事を起こした時、担当者は絶対に守られるべきなのですが、人間は上層部にへつらい担当者へ責任を押しつけ尻尾切りを行う事が企業存続の為の悲しき正義だと正論を作り出しているのです。贈賄などの問題がなくならないのは、そう言った羊達がいるからなんです。

ヒトラーロベスピエール毛沢東も虐げられた貧困層を助ける為に立ち上がっている。ごく普通の「良い人」なのである。戦争の始まりも同様。「愛する者達を守らなければ、、、」人間の「愛」や「正義」と言う感情がモンスターを生み出してく

そして、立ち上がった善良のリーダーは、最終的にしがみ付く「付和雷同」の者達によって殺される。助けてやった「しがみ付く者達」に見放され、殺されて行く。群衆心理の怖さである。ベトナム戦争も同様、正義から始まったが終わりは自国民からの否定で終わった。猟奇殺人などの犯人像も「良い人だった」「目立たない人だった」と言うケースが多い。

どれだけの人がこの繋がったループが見えているのだろうか?

弱者が発生する。弱者を助けようとリーダーが発生する。整備を始めキチンと整えようとすると問題点が見えて来る。問題点の根源は「群衆」にたどり着く。付和雷同の人間達に辿り着く。右の埃を払えば左に埃が立ち、後ろのドアを閉めれば前のドアが開く。結局「しがみ付く者達」の狂気が生まれて来るのである。寒くて凍えていた冬が終わり夏になって来ると今度は暑くてしょうがない。分厚いコートや暖房器具は不要となる。立ち上がったリーダーは不要と化して行く。其れこそが群衆心理。さっきまで有難がっていたものを不要と切り捨ている思考、自分達の不都合が見えて来ると雪崩れ込んで否定を始める心理こそが付和雷同の「しがみ付く者」達の結末なのである。

何故か?人は自由でありたいからである

1692年のセイラム魔女裁判も、群集心理のいい例としてよく引き合いに出される。なにかが起こる典型的な事件。この事件はあまりに強烈で、あれから328年たった現代でも、“魔女狩り”という言葉は、むやみに少数派を迫害する行為をさして使われる。常に誰かのせいにして自分達を守ろうと心理が働く。「しがみ付く者達」は自分達を守りたいだけなのである。今日のSNSなどで繰り広げられている「悪者叩き」群衆心理でのムーブメントは責任の所在が曖昧なのである。

何も殺人や事件だけでもない。サウスメソジスト大学のダニエル・ハワード氏は、株式市場が急騰したり、暴落したりするのは、群集心理のせいだという。経済学の言うところの「神の見えざる手」である。

人は「匿名性が保証されている」「責任が分散されている」「自分の正統性が見える」といった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。
「赤信号皆で渡れば怖くない」と言う心理である。誰が始めた?誰がやった?その辺が曖昧な状況だと人間はモンスターになり易い。

Conformismという言葉がある。画一主義、公式主義、順応主義など。ラテン語conformis(同じ形)が語源。いわゆる体制順応主義で、社会の伝統、慣習に唯々諾々と従うこと。自分の態度や信念が他人の影響を受けて形成されるプロセスのことである。仲間の圧力で影響を受けることもあるし、長い時間をかけて少しずつ影響されることもある。結果、あなたは他の人と同じような行動をとるようになる。従順で大人しい「羊」と化して行く。正に付和雷同である。正に日本人の特長である。

人間、人々が期待する通りに行動すると嬉しいし、自分自身で考えるのが面倒だし、人と違うことは孤独を感じさせ怖くなる。誰もが何気なく選んでいる生き方の側面である。しかし、子供の時親の言うとうり、皆がやっている事に沿って生きていれば安心出来ると言うこの環境が、思春期になると昨日まで優しく頼りになった親が邪魔になる。「ババァうるせぇんだよ」としがみ付いていた子供がモンスター化する。自我の芽生え。従順に画一的に生きている姿勢が、気がつくと自分が思っていることとのズレが生じて窮屈になる。親の助言は正しい、しかし人間清流に住めずで正しいから生きている訳じゃない。時として人間は違う道を望む。一流企業でお金に困らない生活をと親は望むが、子供は貧乏でも楽しく生きたいと叫ぶ。

善良のリーダーがしがみ付く者達に最終的に殺される図式である。そして善良のリーダーが正義を貫こうとすればするほどモンスターになり、しがみ付く者達の反発心や恐怖なども雪崩のようにモンスター化して行く。何方が最初に相手を殺すかが勝負になる。善良のリーダーが初めに殺せば「悪魔」と歴史は言う。「しがみ付く者達」が初めに殺せば「群衆心理」「窮鼠猫を噛む」「羊達の沈黙」と呼んで責任の所在が不透明となっている。其れが歴史の繰り返し。

普段の日常にこの恐怖の始まりが転がっているのである。ここに危機感を感じないために歴史は繰り返している。

日本人の幸福感の欠乏の原因の一つに画一化がある。前述のコンフォミズムである。周囲を乱す事が嫌なので取り敢えず周囲に合わすけど、自分の心は本当は違うと思っている。この日々の繰り返しが虚しさを生み出している。従順な羊達は自己喪失を生み出しているのである。自己喪失は思考の停止を意味し、判断を大きく狂わす。漠然とした不安や恐怖に立ち向かわず普段の多忙な生活に落ち込める人間はそのまま生きて死んで行く。それも一つの生き方。そして其れが多くの人が実は望んでいる生き方のような気がする。

決して付和雷同、コンフォミズムが悪い訳ではない。長いものに巻かれ、本流の流れに身を任せ抗う事なく雲の如く生きていて死んでいく。恐らく人類のマジョリティーはこのタイプであると思うし、それで人生の均衡を保てていればそれで良い。情け無いと思う必要もなければ、バカにされる筋合いでもない。問題は自分達が付和雷同の生き方を望んでいると自覚さえしてくれたら問題は起きない付和雷同は良くない=自分は情けないのか?=日々の暮らしはそんなに苦しい訳じゃないが何か心が満たされないと何時迄も思い込んでいる事を止めれば良いだけである。付和雷同の生き方は一つの選択肢であり、誰に文句を言われる筋合いでもなければ、それは自分で選んだ生き方なんだと自覚すれば良いだけなんだ。押し付けられていると思うからモンスター化が始まる。誰も押し付けていないんだ、自分でその生き方を選んでそこに生きているのはあなた自身なのである。恥ずかしがる事もなければ、他人と比較してこれじゃいけないのか?と思う必要もない。正々堂々と付和雷同素晴らしい、結構楽だし、楽しい人生だと思えば良いのである。重要な事は自分で選んでそこにいる自覚を持つ事。其れがしがみ付く者達の責務である

同時に自我に芽生え、どうしても自由に生きたい。周囲に抗いたいと抑えの効かない人達は、集団から脱し一人になる事。他人を巻き込まない事。自分が何者で、何が好きで嫌いか、何を望み期待しているのか?何処へ向かって行こうとしているのか、徹底的に自分自身と向き合う事が重要になる。アイデンティティーの確立を行う事が最初の責務であろう。其れを確立し我が道を進んでいれば自ずとあなたの後ろに道はできて来る。誰かの道を探してはいけない。何故なら貴方は自由に行きたいから集団から脱している。仲間を呼べば自由は消えて行く。人の跡を追いかければレールに乗る事になり自由とは言わない。一人で生きていく事が楽しくないなら、本当は、貴方の心は付和雷同を望んでいる

善人のリーダーになりたい者は、自分が他人と違う自覚を持つ事と、魚清流に住めず、人間は正しいから生きている訳じゃない、真理だから常にそれに向かって生きねばいけないと言う事もない事を認める事だ。さっき迄「怖いから手を繋いでいて」って泣いてた子は、時が経てば貴方の手は邪魔になるものなのです。人間とは勝手な者なのです。今日カレー食べたい、カレー大好きと言っていてもスパゲティー食べたいとなるんです。冬のスキー場はロマンチックよねと言ってたその人は、冬のスキー場なんか寒いし混んでるし行きたくもないとなるんです。そう言った人間の我がまま、勝手さを許せないのであれば、貴方の心はリーダーを望んでいないんです本当の貴方の心は付和雷同に落ち着きたいと願っているのです。その自分の心を無視して、こうあるべきだ、だってそう願っていたじゃん、お前が望んでいたからやってるのに、間違った方向に行っていいのかよ!と何時迄も無理して生きていくと、狂気への階段を登る事になる。相手を思えば思うほど、正義をかざせばかざす程狂気への階段を突き進む事になる。他人のズルさや身勝手さは非常に可愛いらしい言動なのです。怒る気も慣れないものなのです。

自分と言う動物を良く分析する事です。

なるべく早い段階で精神が不惑になれたら良いのですが、昔から不惑は40歳と言われております。安心、安全を望み親の影に隠れたいた子が、いつしか自分の目で見て自分の足で歩き始め、世界が広がって行くと引き止める親や周囲が邪魔になり、外に飛び出して見知らぬ世界を見たくなる。走っては転んで怪我をして、今度は大丈夫と言いながら走って転んで怪我をして、次こそはこうすれば問題ないと言いながらまた転び、自分では成長している、変化していると思い込んで入るが、結局また走りまた転び怪我をする。流石に疲れて悲しくて傍に座り込む。そしてある人に声を掛けられる「どうして走っているの?」「悲しいの?痛いの?どうして走っているの歩けばいいのに」気がつけば何故自分が走っているのかすら自覚が無い。多くの人間達はそ言うもんだ。だから真剣にもう一度、自分と言う動物を見直した方が良い。

気がつけば「歩いた方が良いじゃん」「みんなと一緒にゆっくりのんびりと」と選択する人が多数の人達と思う。「なんか昨日までキリキリと神経張って生きていた事が馬鹿みたいに」

自覚が芽生えれば多くの人がそうなると思うし、だからそう言った映画や音楽で人々は涙する。季節の移り変わりに感動している。

もう一度自分を見つめ直そう。

みんなお互いにしがみ付き合って、迷惑かけたり掛けられたり、触れ合う袖もなんとやらで、狭い世間を生きている。「しがみ付く者」を恥ずかしがる事はない、付和雷同を悪と思わなくて良い、問題は自分の心は其れが欲しかったたんだ、この安心が欲しかったんだ、自分で望んでいるんだなと言う自覚さえ持てれば貴方は幸福に近づける。

 

ほんの一部の人間は孤独を好む。心から孤独を好むんだ。真理を見つめ、正義を求め、正き世界へ、あるべき姿へ近づきたいと心から願い、そう生きたい人もいる。あくまでもマイノリティーだけどね。自己実現を自分なりに達成できた人間の問題は、その次だな。既に「普通」の生活に身をおいていない時間を長く過ごしてきた。何が真理で何が正義で「自我」を確立している。普通に戻る事可能だが、決して簡単な事じゃない。突き詰めて死ぬまで走るのか?やはり普通に落とし込んで残りを生きるのか?分岐点が貴方を待つ。何方を選んでもイバラの道である事には間違いない。

この先も自分の思うように生きようと決めたなら、調和を重んじる事が重要となる。人間は知恵を持った動物であり、理性と本能、善と悪、光と影、薬と毒、何方も望んでいる生き物である事を認識した方が良い。半分の愛情と半分の理性。半分の思いやりと我がままさ。この中庸と言う世界が見えた時、真のリーダーとは存在感がない空気、宇宙のようなものと思えるだろう。

人々を治めるのは、法でも人情でも強制でも何でもない。 「しがみ付く者達」に引き摺り込まれない強さを自分が持つ事。それはまるで空気の様な存在のものなんだ。決して感謝の対象でもない、見えるわけでもない、ましてや畏敬の念で拝まれるものでもない、普段は誰も貴方の事は意識するしない。しかし空気が消滅した瞬間人々は生きていけないくなるのである。詰まり空気が人間の存在を握り管理しているのである。その外へは誰も行けないのである

その空気様な存在のリーダーが繁栄すれば人間社会は大きく変わる。

しかし歴史は悲しき事実を繰り返す。

もう繰り返しは減らしていこう。自覚を持とう。自我の確立をしよう。寛容になろう。自分の心は何を本当は欲しているのか?しっかりと見つめ直す事が「悲しき繰り返し」を減らす第一歩なんだ。