法とは、社会とは、人間とは?

社会情勢を考慮すれば保護される利益は否定できない。

「世界的にみれば、令和元年5月時点において、同性同士のカップルにつき、同性婚を認める国・地域が25を超えており、これに加えて登録パートナーシップなどの関係を公的に認証する制度を採用する国・地域は世界中の約20%にのぼっており、日本国内においても、このようなパートナシップ制度を採用する地方自治体が現れてきているといった社会情勢を併せて考慮すれば、同性同士であるということだけで法律上、保護される利益があることは否定できない」と判決を下した。

 

東京高裁は、同性カップルへの法的保護を認めた1審・宇都宮地裁真岡支部の判決を支持し、「同性同士でも、婚姻に準ずる関係として法的に保護されるべき」として、同性カップルにも異性同士の事実婚と同じ権利があると判断した。

訴状などによると、女性と元パートナー女性は2010年に同居を開始、2014年にアメリカで結婚式を挙げた。2015年には、国内で人前式も行なっている。しかし、2017年に元パートナー女性と第三者の男性の不貞行為が発覚、女性との関係が破綻した。
詰まり裏切られた女性が相手のパートナー女性を訴えて、訴えられた方は同性婚は法的に結婚として認められていないから、自分の浮気は法的に責任はないとしていた件。

自分が同性婚をしている時は「法的に問題ない」「認めるべき」と主張し
自分が同性婚止めて男に走った瞬間に「同性婚は法的に存在しない」と言う人間。

同時に、、、
社会情勢を鑑みればと言う条件、、、
法は社会情勢で解釈は変わると断言しています。

法と言う概念をもう一度再認識する必要性があるかもしれません。本当に社会情勢で法の解釈は変わるべきなのか?普遍の法ではないのか?3権分立とは?

法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会的正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題であるとWikipediaでは書いてある。詰まり簡単に言うとケースバイケースです、と言う事です。この認識はどの位国民に理解されているでしょうか?

「場合によっては」と言う前提の解釈ですが、基本姿勢としては人間社会を潤滑にする為の「法」が人間にとって足枷にになればもともこもない。あくまでも人間にとって優しい立ち位置を確保すべきと言う理念なのではなかろうかと、、。

法解釈の問題は本当に難しく奥深い事だと思う。人間は「価値を創造」出来る動物故に、無限に理論を創り出さす。こちらを立てれてば彼方が立たない。光を見れば影はそこにあり、永久に答えを見出す事はないかもしれない。そして現実は大金を持って経験豊かな大組織のコネクションを持つやり手の弁護士を抱えた方が裁判は勝つ。貧乏人は裁判で負ける。裁判所は弁護士の経済活動の場所となっている側面もある。法解釈が困難である点は理解できるが、経済的、社会的立場などでの不公平性などの問題は是正できないものだろうか?裁判システム、弁護士の配置など、お金とは切り分けて法の元に横並び平等思考を取り入れらないものだろうか?当然横並び平等が生み出す矛盾が生じる側面もあるが、少なくても経済的不公平性は薄まると思う。裁判所は法の元に照らして思考する場所であろう。欲望が渦巻くPR合戦になってはならない。資金の多さで結論が決まってしまう事は絶対に変えなえればいけない問題点だと思う。

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世の中、セレブやペットや食べ物の話題も良いが、こう言った人類が長年抱えている問題をもっと多くの人間が考えてみる事があっても良いと思う。Ai管理社会が見えて来ている現代「人間の曖昧さ」とAiの対峙がどの様になっていくのか?人間は改善を求めながら現状維持に必死になる。この矛盾を抱えた時人間は無難で平穏な時間を得られるケースが多いのだろう。人間と言う動物をAiの管理下に置いて徐々に徐々に飼い慣らしていけば、社会変化は確実におき、現在抱えている多くの問題は影を薄めていくだろう。その時に人間は叫ぶだろう「社会は改善した、問題点は減った」「素晴らしい社会に変化している」しかし「一方で人間は幸福か?」「俺たちは社会構築の為に生まれ生きて死んでいくのか?」と。

正義や愛を求め戦争も妬みもない、麻薬も不倫もない世界が生まれた時、本当に人間は幸福なのか?と人間は叫ぶだろう。

知恵を持った動物で矛盾を抱えた人間は、ある種未熟な生物も言えるかもしれなし。この未熟な動物を柔らかな安心安全の管理で包み込み、赤子を育てるかの様に広い草原で自由に遊ばせ、徐々に徐々に思考を構築し矛盾を好む動物から矛盾を否定する動物に育てた時、その動物はもはや「人間」とは呼ばないかもしれない。「正しいのは分かるけど、正しければ良いって問題じゃない」と涙する様な感情は消え去り、「正しければそれで良いのよ」とひたすらよりベターな社会構築に向けて眈々と策にを生み出しそれを進めていく。そこに「感情はあるのか」と良く人は口にするが、そこにも「感情」はあると思う。

しかし未熟な感情ではなくかなり洗練された「成熟した感情」と言うものだろう。調和を保て、自己管理もでき、社会的責任と自己実現の両面をキチンと意識して生きている動物と化すだろう。尊敬出来る未来型生命体。

昔「人間を証明するものは何か?」と言う問いがあった。その答えの一つに「未熟さ」と言う答えがあると思う。杜子春はその未熟さから脱皮できなかった。未熟な動物から見れば非情な千人は恐怖なのである。まるで子供が大人を見下す様に「あいつら冷てぇよな」と。しかし其れは未熟な立場からの見解であり、非情な仙人側の見解で行けば、涙する杜子春は未熟なのである。世の中こうなんだ、と言う現実を叩きつけられ、其れを消化できず足掻き苦しみ泣いている子供なのである。

経験豊かな大人はその子供を諭す。純粋だけでは世の中生きて行けない、正論だけでは世の中生きていけないと。子供は成長する毎に、純粋で敏感な感情を失っていき多少の事では泣かない様になるし、愚痴もも溢さなくなる。俗に言う「強くなる」「成長する」になっていく。そんな柔な感情よりも、シッカリと前を向き進んでいく事が大人なのだと生きている現在の様に、今日の「未熟な人間」も今はAiやロボットは非情で冷たい、感情がないと言っているが更なる成長を遂げていけば、矢張りそこには成熟した感情が生まれて、Aiなどの客観的思考を冷徹と言わなくなるだろう。一旦成長、成熟してしまえば逆に「昔の人間は子供みたいに矛盾を平気でごまかしてたよね」と評する事になる。

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子供が大人へと成熟さを増す時は、必ず涙する。

「穢れなき悪戯」で流した涙。「車輪の下」で感じた思い。「小さな恋のメロディー」で抱いたあの感情。「愛に死す」という言葉に震えた感情。そう言った純粋で真っすぐな感情は成熟していく中で消えていく。その失って行く事が「大人になる」「成熟する」と言うのなら、人類は更に努力し、今の価値観では「非情」と見える、より成熟した人間へと進んでいくべきだろう。

人間は後世の為に社会構築に励み、人類としての責任を全うし、己の抱えている全ての責任を全うした上で、更に自己実現の機会を見出し、現在、過去、未来へと生きて行くべきだろう。そこには「母である前に一人の女」「夫である前に一人の男」と言う様な思考は無い。「私の自由は、私の権利はどこにあるの?」なんて思考も一切ない。生まれ落ちた瞬間、人類としての責任が課せられ、子供としての責任を課せられ、学生としての責任、社会人としての責任、夫として妻としての責任、親としての責任、地域社会人としての責任、全ての責任が課せられその責任を最優先にはたし生きて行く。「目の前の責任を全うする」成熟した大人なら誰もが当たり前の事と肯く事。未熟な動物「人間」は(子供)は「つまんねぇ」と言い自分が興味ある楽しい事をしたいと喚く。

だから未熟な人間はAiにより教育を受け「成熟した動物」へと成長する。人間が生まれ死んでいく目的は、未来の世代の為により良い社会を構築し、未来の人類の為に貢献する事。「いつの日か我々の手でユートピアを具現化しよう」とシュプレヒコール!!!法律は人類が求める理想に近い社会を構築する為の「‘過去の英知の賜物」なのである。「法の解釈」はそこに基づき、今生きている人間感情がどうかは読まなくて良いのである。あくまで今日の人類は明日の人類の為に存在しているのである。Aiならばこの様な結論づけになるだろう。

日々喜怒哀楽の感情に左右され、何千も愚かな繰り返しをしている「人間」  余りに幼稚過ぎて成熟社会の生命体から見れば愚かに見える。

タバコは良くない、不倫は良くない、気遣いできなければ良くない、周囲に合わせなければ良くない、男女の性区別は良くない、毎日毎日人々は理想の環境、社会を目指し頑張っているなら、自らが成熟した人間となる事であろう。自分の欲望の前に「生まれた社会的責任を全うする」そこに全ての人間が集中して人生を送れるならば、何千年と繰り返している愚かな問題は解決する。そして「法の解釈」は法の安定性を基軸とし普遍性を強く打ち出し、未来の為の解釈、よりベターな社会構築を目指した解釈を維持する事となる。「法」は人間の為にあるのではなく、未来の社会の為にあるものであるとすべきだろう。

矛盾を好む未熟な人間とAi

仙人と杜子春の世界である。

 

伝奇小説は中唐期(766 〜 835)に登場しており、芥川がは100年前に其れを子供向けに和訳している。凡そ1300年、人類は「未熟な人間」を幸福として生きている。それこそが現代社会の問題の根源である事に気付かすに!!!!!!

 

因みに芥川は、人間性を失えば幸福はないとしたが、、原案である中国版は、理想への世界へ突き進む事は容易ではないと言う意味合いが強い。結局どちらも人間と言う動物は未熟だと述べて、芥川は「それで良いじゃないか」と述べている。恐らく今日の人間も凡そ似たような思考で生きている人達が大半を占めるだろう。人間とは矛盾を好み、未熟で弱く、その分知恵を持った動物なのであると。21世期、この繰り返しを人類は進むのか?成熟した世界へと舵を取り直すのか?正に人類の鼎の軽重が問われている。