性嗜好

日本は本当にこの問題をタブーなほどに蓋をして話さない。非常に閉鎖的、保守的な環境が凝り固まっている。人間と言う動物の真実の一つの側面でもある性嗜好なのであるが、兎に角全てはタブー視され公に話す事は殆どない。

2020年1月、フランス人作家ガブリエル・マツネフが小児性愛を推奨した容疑で訴えられた。きっかけは、14歳から数年にわたり彼と性的関係を持った女性編集者の告発だった。 

フランス人作家ガブリエル・マツネフ。10代の少年少女たちと性的関係を持ち、その経験を作品のなかで赤裸々に書いていた。

そして2020年1月、バネッサ・スプリンゴラの「同意」が発刊されたことで始まった。同書で、マツネフの小児性愛性癖の被害者であるスプリンゴラが声をあげた。

当のマツネフ、、
「倫理的な方々には、作家がベッドのなかで誰とどんなふうに寝てるか、どんな欲望を抑えつけているのかを裁く権利があるというんですか?」

特権階級の差別意識と庶民は批判する
特権階級は無難を生きている連中が極限に生きている側を
批判する資格はないと言う。小説家、芸術家なんて物は普通の暮らしや常識の中にいたのでは何も生み出せないと言う思考からの発言なのだろう。そしてその気持ちは真実の一つの側面であろう。又歴史の偉人たちは決して倫理的な人生を送った訳だはない事実もある。そして人類はそれらを称賛している。

小児売買は、世界的に見ればよく話題に出る問題でもあり、先般タイにて日本人が逮捕された。この性の市場は「外国人」と思っている人が多いと思うが、実際は多くの日本人が客となりお金をばら撒いている。日本で臭い物には蓋をしろ的な扱いを行なっている分、密かに活動し易いのである。

人権とは非常に複雑な問題です。
マツネフは、伝統的に「破戒の人」を好むエリート階級に支持されてきた。老いつつある左翼知識人たちは、マツネフの作品のなかに、体制的価値や慣習に反抗した1968年5月革命の自由な精神がいまも息づいていると感じていた。また、右傾化した新世代の文芸家たちは、マツネフをポリティカル・コレクトネス(政治的公正)に対する抵抗の象徴と見なすようになった。 と記事にはある。

犯った側と犯られた側の言い分。

人間である事、自由である事。一方で倫理という鎖に縛ろうとする「常識」と言う人間の産物。自由平等博愛のフランス。
時代は間違いなく「差別」「被害者」と言う言葉が飛ぶかうだろう。

暴君ネロが「人間は何人たりと善悪の判断は出来ない」と言い放った時から無限回廊を彷徨っている。彼の言葉は非常に真理をついている。

且つ自由には「殺す自由「「死ぬ自由」も「犯す自由」「犯させる」自由も元来含まれている認識を人間が持つ事が大事であろう。
其れを否定しているだけでは先へは進めない。

例えば風俗問題もそうである。

女性蔑視、人権剥奪と騒ぐが、世の中には自分が望んで性商売で生業を立てたい人もいるし、多くの人達が軽蔑している性風俗の仕事に誇りを持っている女性もいる。Mee2のムーブメントにてマイノリティーを救うはずが、一方のマイノリティーを差別している現状を誰も問題視はしない。

人間が動物である以上、善悪が共存する。人間は清流に住めない動物なのである。この現実とキチンと対峙せず表面面の正義感、倫理観では問題は解決しない。異質な物を排除する事しかできない議論は何ら建設的な議論にならず、結果歴史の繰り返し、どっちが勝った負けた、何方が正しいだなどと、片手落ちの潰し合いで終始。

人類はそう言った余りに短略的な議論から早く脱却せねばいけない。

性嗜好、人権、自由、なんて物は綺麗事では語れないものである。

自然の概念に似ている。ジャングルを自然と観るのか?整備された人口美を自然と観るのか?脳の働き、歴史的文化、そう言ったものまで理解し議論をしなければ、物事の総体的姿は見えてこない。見えたところで人間が動物である以上、正解、答えは出せないのでもあるが、それでも先に向かっての建設的議論が有れば余計な犠牲者は出さないよう未然に防ぐ事もできよう。