生と死

生と死の問題だが、、、、
 
基本的に生きるも死ぬも、基本理由は無いと思う。
 
そこが全ての原点で、、、
理由が無いが故に、漠然とした不安を抱えている
 
霧中の海上を彷徨っている様なもの
故に、灯台を探そうと必死こく
 
その灯台にあたるものがモチベーションであろう
 
夢だったり、自己実現だったり、社会貢献だったり、、、
人それぞれ生きる為のモチベーションを創りだす
人間が一番得意とする、、創造である
そしてそれを「理由」「意義」等と呼んでいると思う。
 
当然死に対しても同様で、、
本当に確固たる意識で「死にたい」と思考は出来ない
多くの自殺者や死の権利を訴えている方々は
「解放」を求めている。
 
先行きも続くだろう苦痛から、解放されたい、、、
疲れた、、もういいよ、、、
この心境は「死」とはズレている
あくまで、開放である
 
時として、逃避だ!弱すぎる!等と批判を受ける
背景がそこにある。
批判は自由だが、霧中の海上を彷徨う不安からの解放
と言う意味に於いては、生きる理由を創造している者と
死ぬ為の正当性を模索してる者達は一緒である。
 
光と影であろう。
切り離せるものではない
 
また、生きて貰いたいと願う気持ち!
これも又、愛情とは言え、押しつけ過ぎると
誰の為の愛情か混迷してくる
 
愛する者、家族、友達、第三者、、
誰に対しても、生きて欲しいなぁ、笑って欲しいなぁ
立ち直って貰いたいなぁと思うのも本能であろう。
 
その本能の愛情であっても、相互関係が成り立つ成り立たないは別次元
 
片思いの愛情と何ら変わらない、、、、
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元来生きると言うものは、、、
『脳に悪い7つの習慣』(林成之著)によれば、
神経細胞の第1段階の本能は3つ。

① 生きたい
② 知りたい
③ 仲間になりたい

とのことだ。
 
本能なのである!
本能に、、何で?は無い
そこにあるからあるのである
 
問題は、、、
その本能で、、生きたいと思うのが多くの生命体である
が、、、、現実、、、それを思わない人種がいる
 
前述した、何らかの状況から「解放」を望んで「死」を
利用としている人種は又おいておいて、、、。
 
何の苦痛も無い、、何の不満もない、、
至って普通で、、、どちらかと言えば
良い人生を過ごしている
にも関わらず、、、死を求める人がいる
2010年の場合、自殺者の74.4%が遺書などにより動機が特定できるものの、 残りの25.6%に対しては動機が不明である
と書いていた、、。
 
社会環境や自身の取り巻く環境などの「苦痛」などのからの
解放を求める死は、ごく普通であり解りやすい
拷問され続ければ、、、「殺してくれ」と思いもする
 
この外的要因、主に「苦痛」と成りえる要因を取り除き
本人が生きると言う本能機能を取り戻せるならば
それはそれで喜ぶ人もいるって事だ、、、
特に本人が、「死と開放」をごっちゃ混ぜで認識しているレベルのおいては
一時的に「ほっといてくれ」「死なせてくれ」と
嘆願しても、半強制的に生かす「苦痛を取り除いてやる」事で、、、
「あれ、、昨日までの私はどうしたの?」
「生きるって悪くないよね」
なんて思える人達の為には、社会で自殺等の原因となりえる事象を
改善していく意味合いは有るだろう。
 
逆に、現段階で苦痛の要因を排除できないケース
これは又酷い、、、
許してやれよ、解放してやれよ、、、
と思うのも、これまた極自然の事であり、非難される事ではないだろう
 
人間立場が変われば、一遍に意識は変わる
そんなあやふやな議論や熱意はおいておいて、、、
ここでは議論せずに、、、
 
認識すべき事は、、、、
生命体として、本能機能が働かないケースだ
この比率をきちんと明確にすべきである
 
漠然とした死
動機の不明な死
 
本能が働かない=一種の奇形
と捉えるなら、、、、それは自然であり
外的要因ではなく、生命体の奇形の統計で図れるだろう
 
しかし、その漠然とした死が、外敵要因で影響されて
脳に影響を与えて、機能障害が生じているならば
由々しき問題であろう
 
植物だって虫けらだって、動物も、、、
本能と言う機能により「生きる」と言うシステムが働く
これは本当に極自然の流れであり、あるべき姿だろう
 
さて、、、
本来の意味と言うと少し変だが、、、
漠然とした全く動機が無い死
 
この解明をもう少し真剣に行う必要はある
 
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