60年代に医療界を鋭く書いた「白い巨塔」今は完全に崩壊し「白い廃墟」とも呼ばれている日本医療界。

様々な問題が内部にはある。単純に解決できない問題。

権威を嫌い、腕一本で患者に向き合う医者、そしてその医者にしがみ付く患者。権威に執着しデーターを駆使し最新医療で患者に向き合う医者、そしてそれにしがみ付く患者。つまり病院内部も患者側も人間が生きていると言う事である。人間は多種多様。優しい医者も優しさを求める患者もいるが、そんな事より、最新技術を信じる医者、そしてそれを好む患者もいる。正誤の問題ではない。

病院とは何か?医療とは何か?

現代の日本医学会は「救済医療」ではなく「自然体医療」に舵を切っている。病気の人間を助けるのではなく、病気の人間が少しでも負担を減らせ、その運命に乗り穏やかに幕を閉じていく手助けをする医療に変化している。

組織の中で出世を好むもの、腕一本で生き抜くもの、長いものに巻かれる医者も患者もいる。そう言った人間ドラマは医療だけではなく、経済界も政治も教育の現場も全て一緒である。人間が集まる以上「人間ドラマ「」は日々繰り返される。そういった人間ドラマは一旦横に置いておき、思うことは「本質の喪失」

病院とは何か?医療とは何か?を考えれば、本質は「救済」であって、病気の人を助け、平和で幸福な人生を送る様に手助けする事と思う。では何故日本医学会は「救済」を止めたのか?そこには様々な社会的問題が絡んでいる。医療業界の内部問題もあれば、老人過多の社会問題などもある。今後少子化が進み医療界が老人で溢れ経費も人的にも負担が一気に膨らめば、処理が追いつかない問題となる。国の環境、業界の環境を鑑みた時に悲しき「生き延びる患者」を増やすのではなく、「死にゆく患者に少しでも幸福な時間」を与えてあげられる様な医療に舵を切る事が国民の為と言う結論から現在に至っていると思える。

一見なる程と思える思考だが、根本がズレていると思う。

それは医者が患者の寿命や人生を決める立場ではないと言う点だ。

純愛なる意志と思想で悲しき「生き延びる患者」を増やさない事が国民の為と思ったのだろうが、それは医者の勝手である。医者は「死にたくない」と言う患者は助けるべきだし「死にたい」と言う患者には、それなりの援助を施す事が医者の本来の本分と思う。国が老人で溢れ返り、経済問題、労働人口問題が厳しさを増すからと言って、国や医者が個人の命を勝手に管理してはいけない。「生き延びたい」と患者が思うのであれば生き伸ばしてやる。「死にたい」と思うのであれば安らかな死を迎えさせてあげ、あくまでも患者個人のシナリオは患者個人が主体性を持って決めるべきである。それこそが多様性社会であると思う。

それにより発生する多くの問題は、政治家なり経済界なり、当然国民としての個人達も一緒に解決していくべきで、国や政治や環境が変わるから「命の長さ」をそれらに合わせて医者が医学会が上から決めていくことは正に「白い廃墟」であると個人的に思う。

医療、福祉、教育と言ったものが「商売」になってはいけないと思う。

現在病院も企業化している、法人であり赤字だと倒産してしまう。故に患者の為の思想の前に、経営維持が思想の主役となる。病院が倒産したら患者を救えない、だから経営を黒字化する、黒字化のためには痛みを伴う改革を要する。

一見正論だがこの流れ、落ち着いて見れば「崩壊」への一途である。

病院、医者はあくまでも「患者の為」に存在すべき。経営維持の為に存在すべきではない。我々が解決すべき問題点は、経営問題ではなく「医療、福祉、教育の独立存在」である。経済活動に巻き込む事なく、国家予算などによって主柱を建てる存在であるべきと思う。

親は子を育てる義務がある。いつしか生活の変化に伴い、子育て中心思想ではなく、生活維持が思想の中心となり、生活維持の為子供犠牲になる。親が自分個人の欲望を維持したい為に、子育て本分が置き去りとなり共稼ぎによる「資金解決策」を見る様になる。教育費がないと言うが、その前提には今の暮らしをそのまま維持、若しくはそれ以上の生活をしながら、あれもこれも行うと言う意識から来ていると思う。子供ができたら年に一度の海外旅行も我慢し、週2回の外食もやめ、豚カツを納豆に変え、車も処分。勿論それだけで全ては解決しないし、生活レベルを変えると言っても様々な問題はある。そう言った現実を踏まえた上で言いたいポイントは我々が忘れてはいけないことは「本分」であると思う。

物づくりが本分の企業が、販売目的の企業と化し「良いもの」市場が望む製品を生産するのではなく「売れるもの」の生産意志となり、経営維持拡大思想の企業と化していく。売れればそれで良いとなる。ここにも「経済活動」と本来の在るべき「本分」との間にジレンマが生じて、経営、営業、財務、生産、技術、総務などにおける人間ドラマが生じ、日々足のひっぱりあいが繰り広げられている。

政治も国家の為の本分を脱し、投票取得が目的となる。大岡越前名裁きの舞台の様に、権力を取らねば橋も作れぬ。故に権力を取るまでは権力奪取に翻弄する。それを必要悪と言いながら人類は目的達成の為に手段がいつしか目的と化し、本来の本分を見失い賛否を呼び起こす人間ドラマを繰り広げる。

多様性が増していくこれから、最も重要かつ見失ってはいけない点の一つに「本分」がある。学生の本分は勉学であり、親の本分は子をまともに育てる事。学校は教育の場、病院は患者を救う。

病院の本分を維持するためには?学校の本分を維持するためには?生産工場の本分を維持する為には?どの様な改善策がベストなのかを考える。

病院が営利企業と化すから、経営維持が目的となり患者が置き去り。

学校が営利企業と化すから、経営維持が目的となり生徒や親がお客様になる。

医大卒業の新人達は就職できない。一方病院現場では人手不足で問題が多発。こんな馬鹿げた現実を「経営維持の為仕方がない」と言う言葉だけで処理するには愚かすぎる。

そして社会構造の変革も必要だが、人間の意志の変革も必要と思う。

金持ちになる為に医者になられては困る。金持ちになる為教員になられては困る。金持ちになる為政治家になられては困る。金持ちになる為プロに成られては困るのである。

「金持ちになりたい」と生涯掛けて執着できる人間は少ない。多くの人間は標準より多少贅沢でき、公私のバランスが取れた楽しい人生を望む。「金持ちになりたい」と言う意識が一人歩きしない環境づくりを考えるべき。個人の意思を強制や偏った思想で画一的に押さえ込むのではなく、自然とお金にそれ程執着しなくても生活できる環境を整備していけば、多くの人間は人間としての本分を取り戻すだろう。

その時に現代の日本人が持っている喪失感、何か大事なものを忘れている、そのぼんやりとした不安が解消されていくと思う。アフリカ、インド、東南アジアなど多くの日本人が貧しき国々でカルチャーショックを受け、人生とは幸福とはという人間としての原点を思い直させられる経験をしている。それは日々暮らしの中で「仕方がない」「これで良いんじゃない」と本分を置き去りにした目の前の暮らしの維持だけに翻弄されている時間の中、ふと違った環境で違った人々と接触し、貧しくても輝いている瞳に心を動かされるからだろう。

 

白い巨塔の崩壊は決して医療の世界だけではなく、今日本全体、全ての業界が崩壊への道を辿っている事を表している。

医療、福祉、教育などはサービス業じゃない。

人間は一個人としての自由の権利がある様に、国民としての義務もある。

それぞれが「本分」を認識し、在るべき姿と目的を先ずは取り戻す事が、多様性社会の第一歩となると思う。国が廃墟となる前に、もう一度落ち着いて我が身を振り返って見る事が大事と思う。