ハラスメント

 

三菱電機の男性新入社員が上司からパワハラを受けて自殺。

2020年東京五輪パラリンピック開閉会の演出担当の電通のクリエーティブ・ディレクターが関連会社の社員へのパワハラで懲戒処分を受け、1月7日に演出担当を辞任。

電通、高橋まつりさんのパワハラ長時間労働による過労自殺事件。

そしてセクハラ。最近、社会人のハラスメント問題が多発している。

①優越的な関係を背景とした業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動により、就業環境を害すること(身体的もしくは精神的な苦痛を与えること)

原因は恐らく様々な背景があり事件が起きていると思う。ただ一つ共通して見えてくるのは「陰湿ないじめ」

社会人の環境が、学校の様に幼稚になっていると思える。

学校で起きていた「陰湿ないじめ」それが社会人の中にも出てきていると思う。

どんな理由であれ、社会人になり相手に暴力を振るうことは許されない。同時に相手を挑発することも同罪である。

激昂、売り言葉に買い言葉じゃないが、怒鳴ったりついつい言い過ぎたりする事は、非常に管理が難しいと思う。

業務遂行の時に元来「出来ません」「失敗しました」は許されない。其処の基準がずている。「出来ないのが当たり前」となっている事自体、幼稚に思える。社会人は労働でのプロである。労働して収入を得る。収入を得るには企業が利益を生まなければ行けない。利益を生み出せない社員はダメなのである。この基準は崩してはいけない。企業は学校じゃない。上司指導とか企業の教育システムと言うが、それは付加価値の部分であり、それが無いから「社員がダメになる」と言う思考はズレていると思う。

企業に就職し業務を担当すれば、責任が伴う。企業全体が利益を生み出せる様に、役割分担で業務を担う。誰かが業務遂行に失敗すれば損失を生み出す。それは絶対に起こしてはいけない。その原理原則をもう一度明確にすべきである。

その上で、我々人間はロボットでもAIでもない。初めからプロになれる者もいない。経験も勉強も努力も要し、時間を掛けて学んでいく。其処に教育システムとか上司指導というものが必要となってくる。この順番、基準値がずれていると履き違えた環境になる。

社会人は学生じゃない。企業は学校じゃない。基本は自分自身で学び努力し企業に利益をもたらす。それが社会人の原理原則である。

そのうえで、指導を望むなら素直に頭を下げて依頼する。何故ならば、その指導は企業や上司の本文ではないから。企業や上司の本分は利益を生み出す事である。この視点がこの20年以上日本では起き忘れていると思う。

更に責任の所在が曖昧。

ハラスメントの加害者と被害者。当然言い分は真逆である。それは当たり前の事であり、その言い分の何方が正しいかなどと証拠固めをする事は、企業の問題解決対策ではないと思う。起きた事のさぐり合いよりも、今後加害者被害書共に企業内から出さない為の未然策を対策すべきと思う。

ハラスメントの影に「個人的な好き嫌い」「肌が合う合わない」の感情が潜んでいると思える。その個人的感情を管理できず、猿知恵を凝らしながら「いじめ」を行使していく。人間は感情の動物ではあるが、それを開き直って幼稚な言動を取りすぎるのは如何なものかと思える。

企業内での基準値が曖昧になっている背景が、子供じみた「いじめ」思考を蔓延らせハラスメントを助長していると思える。本来人間一人一人が自己管理をし、きちんとした言動を取れるのであれば社内基準とか、社会人基準と言った指針や方針は不要なのだが、現代は悲しいかな価値観の多様性を相まって、これが正解と単純に線引きできなくなっている背景もある。故に混乱している環境を再度整理整頓をする。その為に原理原則を見直し、有るべき姿を取り戻す。

ハラスメントの責任の所在は、基本的に全員であろう。同じ企業内で起きた事故に基本は全員の責任で有る。違う部署、違う管轄だから関係ないと言うのは幼すぎると思える。

ましてや直接的部下、上司、同僚は間違いなく同罪で有る。自殺者などを出したケースの関係部署の社会人は全員で連帯責任を負うべきであろう。学校で「いじめ」が発生した時と同様で、無関心の罪も問うべきで有る。みんなんで事件を起こさない、みんなでハラスメント環境をなくしていく姿勢がなければ、猿知恵は常にコミュニティーに存在し、ずる賢い奴が喜ぶだけ。猿知恵を撲滅するには連帯責任で環境を引き締める必要がある。当事者だけに委ねては何ら解決先にはならないと思える。

猿知恵が一番出にくい環境は、透明性のある環境。根回しができない、裏で策を打てない環境を作る事である。この透明性のある環境が日本では生まれ難い。常に事前準備、根回し、社内営業というものが良しとされる社会故にどうしても密室の環境を生み出し交渉、駆け引きが行われる。これを崩すには透明性のある環境作り。

これが最も日本では困難な事である。

それと、日本は元来「見て習え」と言う文化があり、学ぶ者が自主的に学ぶ環境であった。教わると言う事は学生の言い分であり、社会人になれば自分自身で学ぶものであった。それが学べない人種が増え「教えない方が悪」「指導の仕方が不適切」と流れが本末転倒になった背景もある。教え方にも多様性がり、様々な教え方に対応する能力も自分で学ぶ。様々な事に対応できなければ業務は遂行できない。

その臨機応変の対応が出来ないとなれば、マニュアル業務につくべきであろう。決まったことを決まった通りに遂行する。それも一つの役割であろう。

対人折衝能力を学び取れないのは、ある側面に於いては失格である。自分達の都合に世間を変えようとする猿知恵が社会に混乱を巻き起こす。

時代が違う、とよく言うが人間は何千年と変わらず喜怒哀楽の日常の中、人間の暮らしや感情や知恵のレベルは殆ど変わってはいない。怒って解決しない、というセリフの影に怒られても自分で解決できないと言う側面がある。怒られ怒鳴られ喚き散らされても、その瞬間は「はぁ?何言ってんの」「何でこの人怒ってんの?」となるのが普通であり「何もそこまで怒んなくても良いじゃん」と思うのである。問題はその後で、自分の感情が落ち着いた後に「どうして怒られたのか?」「何故相手はそこまで興奮したのか?」「何が原因でこうなったのか?」「自分が気づいていない点があるのか?」色々と考えて考えてそれもでも解らなかったら「申し訳ございません。未だに理解できない点があるので、再度落ち着いてご教授願います」と頭を下げる事が大事。

そうやって自分で学んでいくべきなのである。

当然、怒鳴り散らす側も感情論だけではなく、大人としての注意、叱咤を心がけるのも必要。そうやってお互いに自覚し大人の言動をとる様にすれば、ハラスメントは減る。

時に周囲の励ましも必要。時に周囲の全体行動も必要。様々な試行錯誤が人間を育てていくものである。

情報が多々溢れ出し、正解がどれか不明瞭となるのは基準値、原理原則が不透明になっている背景がある。忘れていけない事は、全て正解で全て不正解でもある事だ。ポイントは優先順位、タイミング、などの基準値、問題の根源、なのである。風邪をひいているときに下痢止めを飲んでも意味がない。この薬はとても良薬だと薦めても意味がない。寒い時に夏物を薦めても意味がない。喉が乾いていなときに水を勧めても意味がない。しかしそれらひとつひとつは時期が合えば全て必要なものである。

ハラスメントは当事者の思惑が絡んで起きる。それを見て見ぬフリをする周囲が助長する。加害者、被害者は言い分が真逆。解決するべき問題は、何方が正しいのかをさらけ出すことではなく、問題を繰り返さない為に何をすべきかを真摯に考え実行することである。人間の感情が原因である。

自分人身が成長する事。寛容になる事。不要な情報を見極める事が出来る様になる事。自分達の本分を自覚する事。そう言った事をもう一度思い直してみる。

人間は強くもあり弱い生き物。

これ以上自殺者を増やさないように、、、

友を亡くした、家族を亡くした、者達がどれだけ辛い思いをするのかは、誰もが知っている。ハラスメントは人間の感情が呼び込むもの。誰もが加害者になり得る。誰もが被害者でもある。