貴賎

言語学者じゃないので断定はしないが、、、
貴賎と言う言葉を考える時に、どうも一面的な捉え方をしている人達が多いと思う。同時に「職業」と「労働」を混在させて考えている人たちが多いと思う。
 
日本と言う国は基本的に「異人種」の存在があまりない。
{視点が違えば、当然異人種だらけですよ}
 
普通の暮らしをしていて「外国人」と共有している
と言う認識を持つことなく生きていると言う意味合いですが、、、、。
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これが、白がいて黒がいて黄色も居れば、良く見ると
色合いが皆微妙に違い、「どこのどいつだこいつよ~」と言うのが無い。
 
「どこの馬の骨」と言うのは「村」や「出身地」を指しており、、
人種ではないと思えるし、、、
 
まぁ兎に角日本と言う国は、日本人だけの国である。
 
貴賎とは??
どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。
 
と書いていた人がいた!””!”
 
的を得ていると思う!
 
この言葉の背景は
駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人
と言う、社会、価値観、の基盤が有ったと言う事です!
 
世の中には様々な人がいる!と言う事なのです!
 
これが、、、いつの間にやら、、、、
「皆平等」?って言う意識に流された!!!
 
昔ラーメンの宣伝で「貴方つくる人、私たべる人」と言うセリフを
男女間でかわすのがあったが、差別の問題で確か早々にTVから消えた。
これも一面的な単純思考が成し得た現象と思う。
「なんで俺が草鞋を編むんだよ」
「俺も駕籠にのりてぇよ」
この意識が、履き違えた平等世界を創造していく。
 
 
「職業に貴賎なし」は労働における対価は、決してお金だけではない
と言う内面的な意義を訴えており
「駕籠に乗る人、、云々」は、職種や役割の多様性を述べている。
 
これが、、偏った正義感や、偏った弱者保護的観点から
いつの間にやら、、、「差別」としての「悪玉」され、、、
「駕籠に乗る人、、」は社会から排除され、、、
 
「貴賎なし」の方は、差別は良くない、、と言う代弁士になった
 
これも教育の成せる業だろう、、、、
 
 
 
昔日本には多様性が残っていた!!
しかし、明治維新をきっかけに「平等」が偏光を放った!
 
日本人は「差別」「区別」と言ったものをもう少し、再考する
必要性があるといつも思える!
 
「平等」も然り!!!
 
横並びもそうだが、縦の並びも平等なのである
男女を同じ土俵で判断する事も差別の一つでもある
そう言った側面を忘れすぎている!
 
男女を単純比較する事自体摩訶不思議?
違う存在物なのである
 
「カメ」に「ウサギ」なれと言う議論と同じだ。
(本来あれは、努力を観点としている)
 
しかしいつの間にやら、、、
「出来ないのは、お前の努力不足」
「走れ~、がんばれ~」と声高の表現に変わった!
 
日本はどうも偏った流れに向い易い
左に流れすぎ、右へ舵取りし、今度は右へ流れすぎ
又又、今度は左へ戻しすぎ、、、
こんな感じでバランスを取っている様に見える
 
本来日本人は、折衷案と言うか真ん中どりが好きだった。
その真ん中どりの中身が、単純に中間点の妥協に陥り
そのうち、ずる賢い奴がちょっとでも自分側の意見を通そうとし始め
数の理論が蔓延し、今度は足の引っ張り合い
それで今日に至っている様に思える。
 
折衷案の在り方は、物事のメリットデメリットを明確にし
得れる部分と失う部分の管理を施行し、時代の変化に合わせて
様子を見ながら臨機応変に対応する事だ。
そのときに、殿様が基本的な本筋をずらさぬよう、時々家来の
尻を叩き、道を踏み外さぬよう見張っていた。
 
管理者、幹部、平社員と区別され、役割が明確になっていた。
 
それが、たまたま優秀な平社員が現れ始め、殿の籍を奪ってしまった。
 
本筋が見えぬまま、目の前の問題を解決していく
現場の民衆は、目の前の問題が解決され、目に見える
生活の変化を感じ、これをあるべき姿だと思い込んだ。
 
本来民百姓達は、国政や会社管理、法律の問題なんて
どうでもいい話であるし、理解できる訳が無い。
同時に、国政も、会社経営も、法律も時として民衆には
不都合なものであるし、その不都合な真実を直視さえておかないと
今の日本の様に、勘違いした連中が増殖する。
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「公園で遊ばせておいて、遊具の管理者の責任転嫁が正論になる」
「海外旅行に出て、大使館の保護の在り方に文句を言う」
「成績が悪いのを教師のせい、学校のせいにする」
「「能力が無いくせに、待遇格差を差別だと言う」
 
あまりにも見識が狭い連中のくだらない不満を
弱者保護と言う錦の御旗を振りかざし
「出来な奴が基準となる社会を創造した」
 
基本は、できる奴が基準となるべきであり
出来な奴は出来ない事実を受け止めなければいけない
 
甲子園球児の世界も今は「出来な奴」が主流らしい
己の子供が下手なのに、コーチが悪い、誰が悪いと言うらしい
できる奴を基準すれば「可哀想だ」「差別だ」となるらしい、、、。
 
競争を悪とし、落ちこぼれの自覚も持たせず、過保護な環境で
子供と言う動物を育てれば、痛みも知らず、孤独も知らず、優しさも知らず
己中心だけの価値観の大人が増殖する。
 
現実を直視出来ない、己の無知さを自覚できない
勘違いした者達の争いが始まる。
幼稚故に平気で人を殺す。
幼稚故に場当たり主義の言動を取る。
幼稚故に己の利益だけを考える。
 
愚かな民衆は、金を儲けた奴を崇拝する
愚かな民衆は、著名人を崇拝する
 
詰り、、、
駕籠に乗れる奴は一部の人間であり
決してそれは多くの民に順番で回ってくるものではない
しかし、現実日本は全員が駕籠に乗りたいとなり
「お前も頑張れば、駕籠に乗れるんだよ」と履き違えた夢を与えた。
 
それならば、新嘉坡の様に「外国人労働者」を輸入し、
草鞋を編む奴、駕籠を担ぐ奴を金で雇えば良い。
そうすれば、日本人の多くは駕籠に乗れる!
そうなれば当然、別の問題が生じるが!
 
実際は逆だ!「外国人移民」は受け入れない!
日本人だけの均質社会を創造し直すと言うならば
その日本人の中に、草鞋を編む人、駕籠を担ぐ人を創らなければいけない
 
その「不都合な真実」に蓋をして、目の前に餌をばら撒き
愚かな民衆が、寄ってたかって餌に食いつく。
 
社会と言うものは何か?
平等とは何か?
正義とは何か?
そう言ったものの「不都合な真実」「矛盾」を明確に
打ち出すべきであり、それらの「現実」を多くの民衆は
受け止める「力」が無いと言う事も徹底して自覚させなければいけない。
 
馬鹿には馬鹿の自覚を持たせるべきで
出来ない奴にはできないと言う認識を持たせるべきだ。
はっきり言っておく、、、
「夢の具現化は、一部の人間だけができる」
「その具現化は、才能ののみではなれない」
「生まれた時に、8割方は人生の方向性は決まっている」
「社会には様々な役割の人間が必要」
「育ちは金では買えない」
 
そこをよくよく認識すべきである!
 
そうすれば、手を付けて改善すべきところが
本当は何なのかが、見えてくるはずだ!(一部の人間には!)