せんせい

新聞に日本の教育は、良き友達から先生へと、子供と教師の関係を戻さない限り
未来はないと言う様な記事が載っていた。
 
 
そうか今の教師達は、良き友達って感じで接しているのか?
 
 
親もそうなんでしょ?
友達感覚で接する。
 
何故教師や大人や親の威厳が否定されるのか?
 
傲慢さが強調されるのか?
ただ年齢が上や、立場が違うと言うだけで
偉そうに態度を取られるのは腹が立つのか?
 
教師や親を、年上を敬う気持ちってものは
教育で生まれ育つものなのか?
自然に生まれ出る感情ではないのか?
 
靖国の問題もそうだ、、
 
複雑な問題は有るのだろうが
単純に参拝し、犠牲者達に手を合わせるのは
そんなに大変な事なのか?
他国に気にして自粛する問題なのか?
 
教育の問題も、親子の関係も
勝手に大人が小難しく扱っているんじゃないの?
イメージ 1
弱き者達の一時の感情に振り回されていないか?
 
人間誰でも痛いときゃ無くし
痒いときゃ痒いし、おかしいときには笑うもんだ。
疲れりゃ休みたい。
痛くて泣いて苦しくて立ち止まったからと言って
その人間がもう死ぬしかないのかと言うと
そんな事は無いだろう。
 
時がたてば、又立ち上がり歩み始める。
痛いと泣き叫んでも、何時かは笑う。
今笑っていても何時かは泣く。
 
それが人間ってもんだろう。
 
感情の動物であり、理性を扱う動物なのだ。
 
感情と理性のバランスを保ちながら
各々の立ち位置を定めながら生き
限りある時間を過ごして行く
 
その感情の一面だけを捉えて
騒ぎたて履き違えた救済?を
天使面してしゃしゃり出る。
 
教師を敬うのは義務でもなければ
押しつけでもなかろう
素直な人間として、子供としての気持ちがあれば
自然と敬うのではないか?
 
親を敬う気持ちも子供として自然なことではないのか?
 
人間が多くなり、情報が飛び交う時代
様々なケースが生まれ、問題は複雑化の一途を辿る
 
どうやって生き延びるのか?
 
孤島にでも行って逃げまくるのか?
 
 
袖すり合う事も怖がり
傷つく事も怖がり
失敗を怖がり
リスクを怖がり
他人を怖がり
自分も怖がり
 
どうすんの?
 
 
仰げば尊しで流した涙は
純粋な気持ちだったと思うのは
自分だけだろうか、、、。
 
友達の顔の方が色濃かったが
時間が経つににつれ、教師の顔ぶれも
くっきりと見えてくる。
15歳の心には見えていなかったものが
歳を取った後に見えてくる。
それは15歳の時に、敬う気持ちを持てたからだ。
 
それが無ければ見えるものも見ないだろう。