人間の一生

砂の器とはよく言ったものだ。
不毛地帯も感慨深い。
人間の証明、、、。
死に至る病、、、。
 
本当に人間の一生とは何なのだろう
 
 
自由とは、、。
天寿を全うするとは自由ではないだろう。
自由とは自分で決める事だ。
 
人間はそこに責任を課せた。
自由と責任。
天寿を全うする責任がある。
 
 
悲しきさだめ。      イメージ 1
 
どんなに笑っても
どんなに泣いても
どんなにもがいても
どんなに苦しんでも
どんなに威張っても
最後は死ぬだけ
 
そう最後は死ぬだけ
 
何も残らない
時の塵として過ぎ去っていく
 
精神は残ると言うが
それも確かなものとは言えないような気がする
 
生まれた瞬間に死を決められた存在。
その死から逃れる事はできない。
 
虚しさだけが漂う。
 
しかしその中で懸命に生きる。
前向きに生きる。
それは絶望に耐えられないからだろう。
絶望に耐えられない故に、前向きに生きる。
絶望の中に何時も希望は芽生える。
希望とは生命維持装置が働いた証拠だ。
 
どんなに希望を持って夢を追いかけても
その存在は、儚い。
 
儚いとは、、、なんとも健気だ。
 
人は夢を持たないと生きられない
存在故に、儚き存在なのか
 
若い時は何も感じなかった
人生の虚しさなんて感じなかった
明日があった、訳が分らぬ希望があった
しかし、残り時間が無くなってくると
それらの空虚な希望は消えていく。
 
死ぬ為の準備期間に入る。
四十にして迷わず。
死と言う絶望を受けいれざる負えない。
その現実を受け入れた時に
諦め、達観、中庸、、、、
 
千年後人類はどうなるのか?
三千年後人類は存在するのか?
 
今日、耐えきれない涙を流している貴方も
今日、腹抱えて笑っている貴方も
結局は死ぬだけ。
 
死に至る病とは、良く言ったものだ。
 
戦時中、辱めを受け、悔しさを耐えに耐え
仲間の為に、懸命に生き抜いてきた挙句
時代は大きく変わり、価値観も変わり
気付けば自分の死が目の前にある。
 
何の為に生き抜いてきたのか?
何の為に頑張ってきたのか?
やっと仲間の元へと旅立てる。
何を残せた?何を伝えられた?
感謝もされず、忘れ去られて行くのみ。
 
最終的に人間は、個人の為に生きる事は無くなる
全ての個人は、国家もしくは世界の為の存在となり
その役割と目的に邁進し、個人の権利は押さえられるだろう
 
しかしその在り方は、過去の在り方とは違う
過去は強制で維持しようとしたが、未来は違う。
 
将来の体制は、自主的に個人を滅する。
個人を滅する事に生きがいを見出す。
大きな継続を求める故に、個人世界から
大きな全体世界へと意識は移行する。
 
その世界に突入するには、恐らく千年かかる
五百年もたてばかなり意識は変わる。
旧タイプの人類である我々の意識は
未発達の幼さを残した存在として認識されるだろう。
 
人類が生命と知能を持った責任性が重要視され
個人の自己実現よりも、全体を維持する為に
社会貢献する幸福と言うものが重宝される。
人間の自立心が確立されれば、自ずとそうなる。
 
その先に、別の生命体が待ち受けるだろう。
旧人類とは違うタイプの生命体が来る。
 
凡そ三百年前に人類は、自由と平等に目覚めた。
 
そして今、自由である責任性を考え始めた。
自由と責任が両立して自立心が芽生える。
自立心が確立すれば、自己実現よりも
社会実現が優先される。
解りきった事である。
 
しかし人間とは愚かなモノだ。
たったそれだけを理解するために
何百年も経験を積みさね無いと辿り着けないとは。
 
幼さを残した未発達の人間
 
新人類は、精神レベルは発達する。
間違いなく発達する。
自立の先にあるものは何だろう。