生まれる?
「私はどうして生まれてきたの?」
昔から子供は純粋に疑問に思う。
「それはね、おねぇちゃんの病気を治す為よ」
「私がおねぇちゃんの病気を治すの?」
「そうよ貴方の体の一部をおねぇちゃんにあげるの」
「私はどうなるの?」
「貴方は大丈夫よ!一個あげてもまだ大丈夫なの」
「おかぁさんはあげられないの?」
「あげれる人と、あげられない人が居るのよ」
「そうなんだ、、、」
「そう、貴方はあげられる人なのよ」
「私はおねぇちゃんの病気を治すために生れてきたんだ」
「かぁちゃん、俺はどうして生まれたの?」
「そりゃ父ちゃんと母ちゃんが、お前を欲しかったからだよ」
自分はそう育った記憶があるが、、、
上の会話は非常に重い会話になっている
尊厳はどう捉えるのか?
イギリスでは法的に管理をしながら医療革新を進め
アメリカでは自己制御で医療革新を進めている
アメリカらしい、、
自由が基本になっている故に管理はダメだ
あくまで自己責任と自己管理が問われるべきである
イギリスは、人間と言う動物を客観視して
どのような方向がよりベターなのか模索する
経済の結果を見ても解るように、自由経済は崩壊する
アメリカさんの理屈は、画一的な囲まれた
世界では通用するが、動物に自己責任を問うても無駄だ
日本でも自己制御?らしい風習はあった
地域のしきたり、村八分といったような制御があった
結局は崩壊した。
なぜなら欲望には勝てない、、、
己の幸福を追求るるとき、欲望は武器と化す
幹細胞医療においても、、
倫理問題が親の愛情(欲)に勝てない
「我が子が助かるって言うのに、社会が認めないからと言って
その道を選択しない親がどこにいる?倫理の為に我が子を助けるなと言うのか?」
悲痛な怒りと悲しみと不安とが混じった叫びが響き渡る
スペアパーツを取る為に受精卵を選択し、人間生誕を操る
もう人類は引き返せない
クローン人間も必ず生まれる
個人の幸福の追求は倫理を簡単に打ち崩す
必ず将来、、、幸福の追求が問われる!
人間生まれた以上、誰もが幸福になれる保証を持っているが
それが根本的に見直される時は来る。
50%の幸福と50%の社会貢献と
その両方が個人に課される責任と権利になる
個人追求は崩壊へと繋がっている。
人間の個人レベルがある程度画一化されれば
多少の遠回りしても、自己犠牲の幸福を得る事は可能だが
自己犠牲に幸福を見出せる人間が
世の中にあふれ出る事はあり得ない
つまり、管理をしなければ崩壊する
生まれた以上、権利と義務が課せられる
個人と集団の両方に課せられる。
つまり個人としての権利と義務
集団の一員としての権利と義務
そして人間社会で生きていく以上
個人が優先される事は決してあり得ない!
51%49%の線は確保すべき。
母と女の権利と義務を比較検討した時
母親としての義務が優先される
女の権利を優先すれば、子が犠牲になる
全ての人間が、自己管理を行いながら
バランスを崩さずに家庭を保てるかと言ったらそれは無理!
出来る人たちもいるが、出来ない人が多い。
故に法は出来ない人間に基準を持つ
自己管理ができないから、法が管理をする
幹細胞は再生を促す
今、人間の臓器を豚などの体を使い生産している
豚の体内で生産された臓器を移植する事で人間が助かる
これは、人間の体内を利用する先ほどの実例とは違うケース
人間の体内利用は可哀想だが
動物の体内利用は、まだ妥協できる
と言う価値観の人たちだ
人間が人間を利用する
人間が動物を利用する
非常に難しい問題である
人間と自然の調和はどこにある?
人間は傲慢なまま生き延びていけるのか?
臓器売買も同様の問題だが、、、
「貴方は法や倫理を守るために、我が子の命に目を瞑れますか?」