癒し系

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どうも日本のコマーシャル、ネット、ブログ、雑誌等々を
見ていると、癒し系の色が強く出ている。


多くの人々が、そんなに疲れきっているのだろうか?

単純に疑問に思う


会社の若い世代を見ていてもそうだが
ちょっとした問題で、大騒ぎ、、、
ちょっとした残業で、青ざめている、、



で、忙しい、、忙しい、、
働きすぎだと言っている、、、


ある独身女性の技術者が
主婦の労働者に甘えがあると
嘆いていたが、、、


全体的にちょっとした事で
ノイローゼになったり
ちょっとした事でパニックに
なったり、泣いたり、、、


仕事で起こられ、泣いて
上司批判、パワハラなどと
青筋立てて憤慨している、、、


そして、癒し系の環境へと
行っては慰めあい、、、

昔も慰めあいはあった。
傷の舐め合いのような環境はあった。


けれど、今と違うのは
その癒し系の環境と平行して
厳しい環境が両立していた。


優しい先輩社員が慰めてくれている
矢先、灰皿が飛んできたり、怒鳴り声が
飛んでいた、、、。



確かに長期休暇で癒しの時間を取ることは
必要と思うし、大切なことではあるが

今は、癒しが全てで、、

楽して生きて行けると
もしくは、楽して生きて行けるように
と思っている人たちが多すぎる


効率性を上げる手段の一つして
「お前らいかに楽するか考えて、工夫をしろよ」
と怒鳴られたが、、

それは、楽が継続していく
もしくは、楽な環境を作り
それで事が済むようにすると言う事ではない


一つの目標値であって
目的ではないのに


どう見ても
癒し系の、、、
ぽわ~~としたものに
全体が流されている、、、


物事を達成する
物事を遂行する
物事を共同で行う

と言う事は、結論から言うと
楽なことでは無い

苦しいし面倒だし
嫌になることが結構多い
が、、、
その中にも楽しみはある

この前提がぶっ飛んでいる様に
見える、、、



何かと言えば、、
癒しだ、、癒しだ~~と
疲労困憊のような風潮だが


今の日本ほど平和な国も少ないし
失業率がどうの、収入減がどうの
言っているが、全然苦になっていない
どころか、失業して遊んでいる連中も
少なくない、、、


癒しなんてそんなに必要じゃ
ないんじゃないの?と思うのだが、、


ほんの一部の弱者をクローズアップして
国全体、もしくは多くの人間がそうであるかの様に



「あぁ大変、大変、、」とその気に
勝手になっているだけで、、、
やっていることは、ただあたふたしているだけ



スタンダードが狂っている

生きると言う事は苦しいし
面倒だし、大変な事なのである
仕事も家庭も、全てそうだ

それがベースなのである

国民と言う責任
母親と言う責任
社員と言う責任
子供と言う責任

全てが取るべき責任で
責任回避は出来ない


どうも80年後半以降
ず~~と「あぁ大変だ」
「あぁ可哀想だ」
「弱いから仕方が無い」
「厳し過ぎ」
等と、、、

弱さを良しとする風潮があるが

弱いものは駄目である

生き抜く強さは持ってもらわねば


こういうと、、
差別とか偏見とか、、
現実見て無いとか
できる奴の傲慢だと言ってくる


勿論全員が、同じ強さを
兼ね備えろとは言っていない

賢さも同じこと、、、

100人が全ての理解力を持っている
訳じゃないし、強さも同じこと、、



問題は、基準は何処にあるかである


基準は強くならねばいけない
基準は苦労しなければいけない
基準は生き抜いていかねばならない


その上で、可哀想な人が居たら手を差し伸べ
喧嘩しているものが居たら、馬鹿なことはやめろといい


疲れきった人が居たら休ませて上げ
泣いている人が居たなら、そっと傍で
見守ってあげればいいだけの事で



基準は「低い」所においていけない

できる奴が基準なのだ

勉強 できる奴が規準
仕事 出来る奴が基準


その上で馬鹿な差別環境や
ひがみ根性を教育し
つまらぬ格差環境が出来にくくする



ぽ~としてないで
稼げ、働け、勉強しろ
苦労しろ、泣け、悩め
と言う環境も立ち上げないと


一方的な「楽」な環境ばかりが
先行し過ぎる傾向がある

平和で何がいけない
楽して何が悪い

と言う人が結構居るが、、、

それは平和を認識出来ていない
何が「楽」なのかを認識していない


平和とはぽ~とした
危機管理も無いような状態のみを
さすのではない

働き易い、、動き易い、、
楽に物事ができることの
意味を認識していない


平和とは、凛とした
緊張の上に成り立つバランスであり

楽な人生とは、その有り難味を
感じられる人生である


徹底して自覚を促す
厳しい環境も整えるべき

泣いても騒いでも
金を積んでも馬鹿は馬鹿なのである

その現実を認める強さは
人間として最低不可欠である


利益を確保しなければ
企業も、国も、家庭も崩壊

そして利益を出せば良いという
単純なものでは無い


弱さを自覚できないから
強くなろうとしない

無知を自覚できないから
勉強しようとしない

他人との同異点を自覚できないから
ついつい、はじいてしまう閉鎖性が働く

馬鹿は役に立たない
馬鹿は生きる価値が無い
等と言う教育をするから馬鹿を
認識するのが怖いのである


馬鹿はこんなに素晴らしい
へぇ馬鹿だって事は、楽しいじゃん
おぉ馬鹿って結構重要じゃん

と言う認識が確立できれば
馬鹿であることに恥を感じないし
馬鹿である事の幸せすら感じられるのである


かけっこが遅い
良いねぇぇ

学校の勉強が苦手
良いねぇ

素晴らしいじゃないか!

と言う大人が増えなければいけない

乱暴な表現だが
核を見て欲しい、、

子供の世界は
大人の価値観の写しでもある

親が「馬鹿は無用」と思えば
子も、そういう偏見を持った
狭い価値観の人間になってしまう。

利益のみが企業の目的
利益のみが人間の幸福であると
上司が考えていれば
自ずと部下は偏ってしまう


仕事ができる奴、出来ない奴
勉強の出来る奴、出来ない奴
手の無い人、目の無い人
太った人、痩せた人
金持ちの人、貧乏な人が
居て世の中である

色んな奴が居るのが人間社会なのである

仕事ができる社員、出来ない社員がいて会社と言うと
多くの経営者は、それじゃ困る、、
皆、それなりに仕事が出来てもらわないと
そう、、嘆くが、、、

大体企業の場合、仕事ができる と言う
判断は、一面を捉えての判断しか無い

無用の要

を知らない、、、
でくの坊は立派な、でくの坊と言う
仕事をしているのである

そして、そのでくの坊を抱え切れる
予算を組まなければいけないが
でくの坊が、居るのに
いないことを前提に予算を組み
大変だ大変だと言っている
馬鹿な経営者が殆ど
それで労働者を上手く活用しているとでも
思っているのでしょうか?

稼ぐ奴が稼がない奴に分配する
当たり前の話である
出来る奴が出来ない奴の分をやってあげるのは
当たり前の事である。

それならヤリ損じゃん
上手く働いた振りをしたほうが得じゃん
小学生の会話のようである

これが今の日本の企業マンのレベルだ
損をする
やってもやらなくても一緒じゃないか
と青筋を立てる

情け無い、、、
こんな親が子を育ている

いかに日本の教育がズレているのか
如実に表している、、、


勿論必要な較差はある


同時に較差があまりに大きい
偏見のある差別がある
それも良くない!

自覚することの大切さと
自覚する強さと
自覚を促す環境と

今の日本には少なすぎる、、、、


あくまでスタンダードは
できる奴がスタンダードであるべき

そして出来る奴と出来な奴が
世の中には必要なのである