やるせなさ

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長くも短い人生、生きていると色んなことにめぐり合う。

思うようにならない、苛立ちがある。

他の人が馬鹿に見えたり思えたり。

そんな憤りややるせなさは、星の数ほど世の中に転がっている。

そんなもので一喜一憂するのが人生かも知れないが
時として本当にやるせなくなる。

個人の人生を取ってみても、点で存在はしていない。
過去の点が数多く繋がって線になっている。

点は必ず繋がって線になる。


今日馬鹿に思える上司にも、過去からの重圧がある。
もしかしたら本人もやるせないのかもしれない。

なんてひどい人間だろうと思えるあいつも
様々な繋がりの中で、もがいているのかも知れない。

もっと多くの人間が、同じ様な状況下に居れれば良いのだけれど
世の中そうは行かない。

物は基本的に上から下へ流れる。
特に汚れたものは、流したいのが人間だ。

下で重圧や責任を取らされる側に立つと
会社や上司が、ご機嫌取りの同僚が馬鹿に思える。

しかし、ご機嫌取りも、かばん持ちも、それはそれで
それなりの思いを抱え込んでいる。

上司からみれば、いちいち反抗や異論を唱える部下よりも
イエスマン的部下の方が、自分の計画を進め易いと思うのが
自然な事である。

上司の補佐を行うのが部下の任務でもあり責任でもある。

上司は多くの指示や重圧を部下よりは多く持っている。
上司や年配者は、若い連中よりも経験も豊富だ。

特に人生は理屈や正論で動いていない。

同時に先輩も上司も親も人間だ。
自己的な保守もある。
身勝手さや我侭さもある。

人間だもの。

若さは大局観を持ち得ない。
経験が少ない。

若さは物事を突き押すエネルギーはある。

若さは正義感が強い、理想を望む所以。

若さも老いも、それぞれに持ちえるものがある。

そして今日の若者は明日の老人になって行く。
これが理解しにくい。
理屈で解ったつもりでも、実際に老人にならないと
その時の気持や立場を、理解しきれない。

今の若い世代は、繋がりが薄いと言われている。

繋がる事は、ウザイ事を抱え込むことに結びつく。

面倒なリスクを背負わないように、繋がりを薄く
キープする必要性が生じてくる。

それは加害者に立たないようにする
人に迷惑を掛けないようにする
怒られないようにする
等の思いに近い部分が多くある。

人に迷惑を掛けない。

これは世界共通の価値観でもあるが
日本と海外では、その中身が違う。

日本は形を重んじる。
海外は己、個人が中心。

つまり、日本は周りからどう思われるかを中心に
他人に迷惑を掛けないという価値観が生じ易い。

海外は、自分個人が人間として、他人に迷惑を
かける事が、どうなのかを先ず考える。

日本は集団ありき。
海外は個人ありき。

同じ、他人に迷惑を掛けないという論点でも
大きく結果は、懸け離れていく。

基本的に人間は何人だろうが変わらないといつも思う。

日本は形から入る文化だった。
それは個人的な問題よりも、和を重視する
必要性があったからと思える。

しかし、それは最終時点ではない。

例え形から入ったとしても、最終は個人の中身である。
其処まで突き詰めるのは、個人の力量に掛かっていた。

形に押し込まれ、憤りの中、最終的に行き着くのは個人。
人生において、人間として、どうなのかが問われているのであるが
其処まで到達する前に、思考を止めた。

面倒なので、決まりだから、慣習だから、大人が言うから
怒られないから、、いつの間にか思考を止めた。

「どうして、~~しちゃいけないの?」
「それはね、みんなに嫌われるから」

「なんでお前~~しないの?」
「怒られるのが嫌だから」

「なんでお前~~やらないの?」
「面倒だから」

こんな会話が蔓延した、、。

此処に大きな歪みが生じた原因があるように思える。

「~~しちゃいけないの?」
「貴方が、本当にしたいかどうかを考えなさい」



形から入った文化は、強制力を必要とする。
それが今失った。

強制力を失った以上、個人への責任を強化しなければ
バランスが崩れる。

昔は強制の中で思考も続けなければ大変だった。
それは生きていく術に結びつく。

今は、その強制がない以上、子供は考えない。
自己の正義や自己の立場を主張する。

それは大切な事だが、其処に責任が伴う厳しさを与えないと
大きな勘違いを起こす。

どの道を行こうが、個人の責任からは逃れられない。
どの道を行こうが、思考することから逃れられない。

其処だけは忘れてはいけない。

何故形から入ったか?
子供に大局観や思考力が少ない。

思考力がない以上、子供委ねることは出来ない。
理解力がないのだから、先ずは強制的に!

いつか子供も歳を取ったら理解できる日が来る。

実際大人に成った子供達は、大人の厳しさを感謝できる。

しかしこれは、思考を続けた結果だ。

思考を途中で止めたら、感謝までは行き着かない。

個人主義を重んじるならば、責任も負わせなければいけない。
集団主義を重んじるならば、強制力を容認せねばならぬ。

最終的に行き着くところは、一緒である。