寛容であれ

免疫学者の多田富雄氏が「長い暗闇の先に希望が見える。寛容の世界が広がっている」そう語った事が話題になっている。
 
多くのコメントは、寛容であれとお決まりの如く、善の勧めになっている。
 
このブログで何度も言ってきたが、人間とは寛容であり勝手な生きものである。既に誰もが、時に寛容である。
 
 
まるで多くの人間達は寛容さを忘れているかのように言っているが、人間は誰でも寛容である。
 
 
しかし同時に我儘で排他的でもある。
 
先ず、多くの著名人のコメントを美辞麗句を並べたて賛美する、単純思考はいい加減卒業した方が良い。同時に言葉の背景を、よくよく考える事だ。
 
 
多田氏の場合、彼が死を意識した発言だと言う事実を考えるべきだろう。
 
人間死を迎えようとするときに、仏の境地に至ったり、鬼の境地に至ったり、普段無意識に明日があると信じ込んでいる人間達とは、思考回路が根本的に違う。立場も違う。
 
寛容とは「ガンに殉じて死す」と言う側面も含んでいる。
 
自身の中にある都合の悪いものを、受け入れた時に救いが見える。
 
悪を排除しようと抗えば抗うほど、エネルギーが必要だが、一度全てを受け入れれば、そこに自身の救いが見えてくる。恐らく氏は、そこの境地も感じていた。
 
そしてそれは、あのような経験の中から生まれた境地である。
 
 
それを数学の公式の様に「寛容であれ」と知識のみを鵜呑みにし、如何にも理解したような態度で生きる事は、非情に危険であり、あまりに愚かな言動である。
 
若い時は抗えば良い、徹底的に我儘であれば良い、それら全てを経験したうえで、寛容になるのは良いが、世の中の酸いも甘いも知らないくせに、理解したような言動を取る事は若者が取るべき態度ではない。
 
又、経験不足の者たちに、それを勧める大人もあまりに愚かである。
 
イメージ 1
多くの人間が、多くのすばらしい言葉を我々に残してくれている。誠に感謝にたえない。
 
 
しかし経験不足の者達よ、それらの多くの立派な言葉は、多くを経験した先に見えてくるものだと言う点を忘れてはいけない。経験もせずにその境地になりきるのは非常に危険である。
 
 
若い世代は、常に常識を疑え!
経験を積む前は、常に抗え!
勝手であれ!
 
全てをぶち壊す位のエネルギーで「当たり前」にブチ当たれ!
 
そして悩め、苦しめ、泣け、傷つけ!
 
そすれば、人間と言う動物が見えてくる。
人間と言う動物を理解できる。
 
人間は神、仏にあらず!
神、仏に近づく必要もなければ、なりえない!
 
カメがウサギになれぬよう、人間は神仏になりえない!
 
 
物分りの良い、若者になる必要は一切ない。
 
 
それは、努力を否定するものではない。
それは、理想を否定するものではない。
夢や理想を持って、結果を恐れず努力する事は誠に大切なことである。
 
しかし、神仏にはなれない事を自覚せよ。
うぬぼれるな。
 
己の弱さ、己の傲慢さ、己の陰、己の悪、、それら全てを認めない限り、努力は意味を半減する。
 
 
 
人類が最も今必要としている事は、知識の蓄積ではない。
 
人類が最も今必要としている事は、経験の積み重ねである。
 
 
現代の若者は経験があまりに少なすぎる。
異物との交わり、不浄の世界、矛盾の世界、不条理
それら多くの世界を体験する事が必要である。
 
年齢が若いうちに、人間の影を見る事が必要だ。
そして齢30年も生きれば、ある程度清濁を併せ持った
境地に立たせる事である。
知識ではない、境地に立たせる事だ。
 
 
それが今人類に求められている事である。
 
 
人類は凡そ三百年前に自由と平等を意識した。
三百年と言う途轍もない時間を掛け、やっと自由と平等の
影と矛盾を考え始めた。
 
 
三百年も経った。
 
 
自由と平等は、善だけの存在ではない。
自由と平等にも、矛盾もあれば影の側面も存在する。
それを認識する者たちは、今どれだけ世界にいる?
 
輝ける自由と平等を、祭り上げている者たちは多いが
自由と平等の怖さを認識している者たちは、どれだけいる?
 
 
それが、経験の大切を物語っている。
 
人間は理屈だけでは生きていない。
人間は知識と経験を持って、実現化を図る生きものだ。
 
情報に貪り付き、如何にも理解したような
言動で闊歩する者たちが多い現代。
中身の無い、薄っぺらな言葉も見抜けない
者たちが闊歩する現代。
 
 
経験の重要性。
野性の重要性。
感覚の重要性。
 
 
 
若者よ!繰り返すが、経験もなしに常識や善を鵜呑みにするな。
 
 
大人もその伝え方をよくよく考えて、若者と対峙せよ。
 
 
この世の全ては、光と影がある。
矛盾の塊である。
相対性社会である。
そしてそれは、経験と言うメガネを持って
覗くしかない。