ABUSEMENT

非常に根深く複雑な問題である。

最優先で手を打つべきポイントは、社会、国民一人一人の意識改革。無関心、ゴシップ志向、そう言った意識を変えるしかない。しかし現実は不可能に近く、結局今後も人類はこの問題を繰り返す。

当事者を責め立て何故?と問い詰めても、悪者を選び出し叩き潰しても問題は解決しない。それは全員が人間だからである。単純な問題ではない。非常に重く、国民全員が危機感を持たない限り改善はできない。

目黒のアパートで船戸結愛(当時5歳)虐待死事件の場合、父親の行き過ぎた感情と、母親の怯える意識が弱き子供を殺した。世間は親が悪い、酷い親だと騒いでいるが、彼らは至って普通の人間である。悪魔でも異常者でもない。

児童相談所は何故防げなかった?幼稚園は何故防げなかった?警察は何もできないのか?近所の人達は気にも留めていなかったのか?大人の都合で犠牲になるのは子供達である。そのくせ幼児性癖者達に唾を吐く。普段は無関心、他人事、そして異種的な存在は平気で叩きのめす。この大人の身勝手さが痛ましい事件を防げない問題点の一つなのである。

人間は動物である。

子供を愛せない人間はいる。産みたくもない子供を産む人間もいる。子育てに押しつぶされる人間もいる。色んな人間、色んな親が存在するのが人間社会なのであり、その穴だらけの社会を誰が支えるのか?それは社会の一員である大人達全員なのである。

児相組織の問題もある。警察組織の問題もある。学校組織の問題もある。そう言ったどうしようもない大人事情の問題なれば「仕方がない」と逃げる大人達。自分達の問題は隅に押し込み蓋をして、誰かを悪者に仕立て上げ、そいつを悪魔だと叩き潰す。マスコミも当事者だけに光を当てる。全ては大人が作り出している問題だと言う自覚が生まれぬ限り虐待は改善されない。それどころかこれからもっと増えて行くだろう。

無知の罪。世間を知らなすぎ。社会のシステム、実態を知らな過ぎ。全ては他人事なのである。事件が起きた時だけ、野次馬意識で群がって騒ぎ立てる。非常に情けない。

我々がこう言う問題を認知した時、実態を知るべきだろう。マスコミだけに頼らず、身近な場所や身近な手段で本当の実態を掘り下げる努力をすべきである。

何故人間は人を殺すのか?警察組織のあり方は?児相のあり方、仕組み。学校などの仕組み。幼児虐待だけではない、親の介護問題、ストーカー問題、常に声を出せない弱者をどうすれば察知し、どうすれば安全に救い出す事ができるのか?

ある嫌われ者の子供がいた。優しい男の子。誰にでも声をかけ笑ってもらおうとジョークを言うが誰にも好かれない。皆が面白いと思う観点と彼の観点は大きくかけ離れていた。ましてや男の子、少しナヨっとした弱腰姿勢をクラスの子供達もオカマとバカにする奴もいた。子供達も彼が仲良くなろうと努力をしていることを認識していたので、手荒なイジメは誰もしなかったが、好んで彼と遊ぶ事もせず、出来るだけ無視する様に努めた。教師も大きな問題になっていなかったので、子供達には一般的な指導をするのみだった。俗言う「キモい子」彼の名は「ゆうじ君」8歳。

ある日担任の教師がゆうじ君の変化に気づいた。腕に怪我をしていた。クラスで誰かが危害を加えたのか危惧して調査した結果、どうやら家で怒られて叩かれた事がわかった。その子に怒られた理由を聞くと「嘘ついたと怒られた」との事だったので、然程の心配もせず時が流れた。ある日顔を腫らして遅刻してきた。余りに痛々し過ぎて全身を調べたらアザだらけだった。親に叩かれていると言う事だった。担任は校長へ相談。「学校は警察ではない、調査はするな」それが校長の回答だった。

担任は児相へ報告した。報告を受けた児相の担当者はその子の家を訪問した。記録によれば親子四人で住んでおり、訪問日には特に問題は起きておらず、虐待の様子も見られなかったと記録されている。しかしその記録は玄関先で母親と会話しただけで書かれた記録だった。児相の職員は子供自身を確認もせず、家の中も確認せず、玄関先での母親との会話だけで、問題なしと判断をした。

問題のこの子の傷やアザは酷さを増した。担任が問い詰めると、誰かが家に来て母親と話していた。その後母親は「お前のせいだ」と言って激怒したと言う。担任はピンと来た。児相の担当が訪問し、その腹いせ復讐で母親の虐待が強まったと。その後担任は児相への相談をためらった。何故ならその報告相談がその子を追い詰める事になるかである。

担任は警察へも相談した。事情を説明し上手く対応取らないと、子供が傷付くと。警察の範疇ではなく他の機関へ相談する様に促された。担任はその子が心配で数ヶ月色んなところを駆け回り、何らかの手段がないかを探し求めたいたが、遅くまで帰らない日々が続き自分自身の家庭から不満が出る様になり、徐々に活動が停滞していった。自分の家庭が崩壊し始めた。

ある日の朝、救急車に要請があった。

「子供が息をしていません、助けてください」

救急隊が駆け付けた時には、既に心肺停止の状態で子供が発見された。病院へ搬送し多くの医者が懸命に術を施すが彼の意識が戻る事はなかった。両親は酷く悲しんでいた。何があったのか救急隊や医者が聞くが説明がハッキリしない。

数日後両親が虐待殺人で逮捕。

数ヶ月後裁判で明かになった内容によると、母親は子供の時に近親者から暴力虐待、性虐待を受けており脳に支障が生じていた事が公表される。父親は潔癖症癖のある男性。母親のヒステリックな言動が家庭を支配していた背景が浮かび上がった。脳障害がある母親の言動が父親へ大きく影響を及ぼしていたが、初期の頃は父親と子供達は母親から身を守る為に連帯意識を持って母親と対峙していたが、父親もだんだんとストレスによる感情障害が発生し、その矛先が弱い子供へと向かった。

母親は脳障害を受けていた自覚は無い。父親も感情障害を起こしていた自覚はなかった。担任も自分を責める感情はある。学校の対応が批判された。児相の対応も批判された。警察対応も批判された。親は自覚なき病人。近所の人間達は驚くばかり。

誰がこの事件を未然に防ぐ事ができるのか?

誰が亡くなった子の命を守れたのか?

行政や国の機関は家庭内には入り込めない。警察も家庭内問題へ入り込むには様々な問題が生じる。無限の問題が絡みつき、結果大人全員は、規定に沿った行動をとるだけ。しかし規定に沿った行動だけは悲惨な事件は防げない。

世の中で起きている事件の殆どが、どうしようもない現実の中起こるべきして起きている。そんな歴史を人類は何千年と繰り返している事実をどれだけの人間が自覚して生きているのか?

相も変わらず犯人像はどうだとか、判決内容がどうだとかで終始。

結論を述べるなら、組織の限界を一人一人が人間としての責任で規定を超え行動を起こしながら、組織の仕組みをより弱者保護に沿った形での改善を図るしかない。つまり一人一人が人としてどう感じるのか、どう思うのか、どう行動を起こすのか?それは誰かに指示されることでも誰かが責任を取ってくれるものでもない。規定を破る責任を負い、自らが弱者をも守る事が悲しい犠牲者を出さない事なのである。

職を失うかもしれない、間違った判断をするかも知れない、良かれと思っても結果は逆に出るかも知れない、嫌ごとに巻き込まれるかも知れない、家族が反対するかも知れない、危険な事に自分の家族も巻き込まれるかも知れないと言う環境下で、世の中で何人の人間が行動を起こせるか??誰が行動を起こせるのか?

本来其れが#meTooなのである。

世界ではそれでも行動を起こしている人間がいる。多くの地域や個人が声を上げて行政改革、地域改革、自らの意識改革を毎日努力をしている。マイノリティーだが確実に存在してるし、徐々にその行動が波紋を広げている。

指示待ち、責任回避が良しとされる日本社会。毎日悲惨な事件が起きては感情論の浪花節論争で明けては暮れている。職を失ってでも、家庭を説得してでも、自らが近所の事件を未然に防ぐと行動を取る者はいない。それが日本と言う国であり日本人なのである。