過激

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立った一言の過激と言うレッテルで消されてしまう。

思想犯は何十年経っても尾行が付き、既に柵内にいる人は
出る事が無いと言う。

何処の国でも過去に国家的弾圧?と呼ばれる過去がある。
多くの民衆の安全を守るには、必要悪?とも言える側面をもっている。

大なり小なり今日、企業でもなされている行為である。

価値の統一、ベクトルの一本化等、呼び方は多々有るが
結局は限られた思考だけを求め、多種多様を認めず
管理を単純に行い、複雑な環境をすっきりしたものに変え
一つの目標に向かい邁進する。

大きなマスを動かそうとすると、必ず生まれるジレンマ。

其処に集団心理が働けば、怖い状況にもなりかねる。

皆違って、それで良い
だけど皆一緒に、こっち向いてとなる。

過激、変わり者、危険分子などと言うレッテルも
基本的に基準があってないようなものだろう。

時の権力者や、その時々の集団にそぐわない者は
危険視され、たとえそれらのマイナーが正論を叫ぼうとも
民衆には、彼らの叫びは届かない。

時代が変わり民衆の興味が変わり、その時に初めて
今思えばあの人が言っていた事、当然の事よね!となる。

今日偉人とされている多くの人間は、その時代危険分子と
されていたケースが多い。

多数決、数の論理、民主主義のジレンマがここにある。

そろそろ気付いても良さそうなものだが、、、。
羊達は沈黙を維持している。

それにしても人間の過激さは怖い!
過去の弾圧や戦争や様々な環境で、多くの純粋な
信仰者、もしくは組織の一員は徹底して殺人を犯し
国のため、社会の為と、殺戮を行った。

家族を守る為、国を守る為、治安を守る為人を殺す。

今、追い込まれた羊がキレル!
己の抑圧を抑えきれずに人を殺し、安堵する。
人命よりも、己の抑圧された心の開放が優先。
それは己を生かそうとする防衛本能である。
キレなければ、己の存在が危うくなる。

昔経済的貧困が犯罪を生むとして言われてきたが
今それが起きている。

表面上は豊かに見える国で、細胞が貧困の時代を迎えている。
一部は高額、一部は蚊帳の外、、、。
しかし誰も日本が貧困の時代を迎えているとは思いもしない。

貧困とは絶対的存在ではなく、相対的存在。
貧困は裕福の中にある。
貧困とは己の中にあるものだ。

年収が1億有っても、他の9割が1兆の年収になれば、一億は
貧しいことになる。

相手があって初めて、その価値が生まれてくる。

今国は貧富の差を起こしても市場原理主義市場経済を行こうといしている
その中で管理経済を叫べば、危険分子となり、世が世なら特高にやられてる。

核は我が国だけが持って良いと思っている相手にとって
うちもちょっとは開発しようとなれば、テロの巣と呼ばれる。

力が有るものが、力の猛威を噴出したら、時代は一片に変わる。

人間が切れるか、自然が切れるか、どちらが先だ?